昔の相撲部屋のちゃんこは部屋によって大きく異なった。今の相撲会社のように一律で養成費が入り安定した経営ができる訳ではなかった。
相撲部屋の主な収入は本場所ではなく巡業によるもので各部屋の巡業の収益が大半。巡業も一門別が基本だが、小部屋の場合は大巡業からも外され鄙びた場所を練り歩いて食いつなぐ文字通りの小相撲ばかり。さながら見世物のサーカスだったとの証言もある。チャンコといってもロクに食材もなくすいとん、べちゃべちゃの麦飯というのが多かったようだ。
石井代蔵著の土俵の修羅や親方列伝には苦労話が山のようにある。
あまり知られていないことだが、明治42年まで相撲協会主催で本所回向院前の広場で炊出しが行われていた。炊出し担当の親方がいて食糧事情の悪い部屋の幕下以下力士に現物給付として無償提供していたのだ。朝5時6時から力士が群がり、広場で食事したり部屋にお櫃を持ち帰った。醤油やみそなど調味料の配給も行われた。
両国国技館の開館を機に表面上は廃止となったが実際は大正期まで続けられた。両国近辺の住民にも提供していた。力士とのふれあいとも言われたが実情は貧困による食糧難からが大きかった。昭和30年代相撲界で長老格だった振分(元関脇・浪ノ音)も
明治期は幕下以下でアンコ型などほぼいないがこのような食事では納得できる。粗末な時代だった。幕内力士も基本はそのような食事が多かったようだ。