政治的な横綱
照ノ富士も1場所3金星配給から休場と衰えの影が濃い。しかし一番の難題は次の横綱がいないこと。照ノ富士昇進時より言われるが現状も変化なし。7日目終わっての大関の成績は
正直5勝していたかという印象もある。それぞれみると
今場所大関が優勝するかは微妙で、仮にあったとしても即横綱は尚早だすぎる。何度と綱取りが叫ばれた貴景勝の現状をみると誰一人横綱の声はかけにくい。照ノ富士引退後、強引な昇進がなければ横綱空位の可能性は高くなる。
しかし過去、成績以外の政治的な要素で昇進したとみられる横綱は古今で見られるものだ。
西ノ海1は黒田清隆ら薩摩閥の後援、西ノ海3は1人横綱の解消、武蔵山は人気はあったとはいえ当時の高砂(元大関朝潮)の推薦が大きかったという。
この当時は今以上に体面を重視していた。すなわち東西の均衡、一門のバランス、後援者の面目を保つといったところであろう。
その中でも西ノ海3はとりわけ成績不振だったようだ。何しろこの横綱は体格だけは大柄ながら、反比例して小心で知られ、「ションベン相撲」と陰口をたたかれる程、立ち合いが下手で相撲が遅い。
日本相撲史には
源氏山の横綱。上にもあるように当初の出羽海方から連合方に回されたことで出世の道が開けたのである。昇進のきっかけも出羽海所属の大錦の突然の引退によるもので、それにプラスして東西に横綱を置きたいという事情が後押しした。大錦があと数年現役であれば西ノ海は大関で終わったと愚考する。しかし大正12春の8勝1敗1分で前場所は全休と2場所の成績としては弱い。
最大の理由は当時最強の横綱栃木山と引分けたことという。果たして栃木山に配慮があったかどうかだが、後年直接春日野に尋ねてもはっきりとした答えはなかったという。
呼出太郎は読売大相撲の「小錦から朝汐までの30人の横綱」でも「弱い弱い。本当に弱い。巡業をやるのに看板の横綱がいなくちゃしょうがないからつくったようなもの」と評している。他の横綱と比較して段違いに酷いものである。
立ち合いが不得意なことが成績以上にまずかった。大相撲画報36年3月号「大相撲太平記・昭和動揺期編Ⅵ」にも叱られた西ノ海と題して、前日新海に勝ったが仕切り時間の制限を破って12分かかった西ノ海が協会に呼ばれお目玉を食ったとある。昭和3春のこと。
西ノ海は大正14年の東西合併連盟大相撲での栃木山の土俵入り中、心臓発作で倒れるという不運も重なり、その後は1場所皆勤だけで昭和3関西場所限りに引退した。ちなみに引退まで8場所連続休場でこれは90年後に稀勢の里が並ぶまで最長であった。隠れた没記録である。
引退後に年寄として真価を発揮できれば良かったのだが、5年後の昭和8年に42歳でなくなった。横綱であれば検査役といった役職にあげられるのが通例だがどういうわけか平年寄で終わった。体調面かあるいは横綱時代の成績も尾を引いていたかもしれない。性格も暗かったという。いわゆるネクラ。
横綱候補もいない現状だが、長い歴史を見るとこういった横綱もいた。誰かを無理に横綱にあげるのかあげないか。相撲協会の判断にかかっている。
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