見出し画像

北の富士逝く

九州場所も終盤という所で大きなニュース。横綱北の富士が亡くなった。11月には入って体調を崩し入院、12日に亡くなったということだ。

おそらく九重・八角部屋の力士たちは入院・死去の事実を知っていたのだろう。北の若はどこか気合も入っているように見えた。

場所中に亡くなる元横綱・力士は意外と多い。大鵬、北の湖がそうで、千代の富士は場所後すぐであった。

2023年初場所を最後に療養生活に入っていた。コラムも執筆できず今年の名古屋場所にビデオメッセージを寄せたが、往年の姿と比較しては痩せ、声も細く憂慮されていた。

現役時は記録以上に記憶に残る横綱として一世を風靡した。しかし当初より有望力士だったわけではなく大部屋ということもあり苦難も多かった。はじめは見込みのない力士の印といわれる行司の付け人に指名。

師匠が元出羽ノ花に変わってから頭角を現したという。いわばこの師匠の金に糸目をつけない育成法によって開眼。1963年に十両、十両全勝優勝を土産に1964年初入幕した。いきなり13勝を挙げ以降上位に定着。1966年、3場所28勝ながら大関昇進。師匠千代の山の決死の独立に同行し、千代の山に報いるべく奮起し初優勝を果たした。しかし以降は不振続き。ここまでかというところ、清国の大関昇進をきっかけに奮起したといい、1969年九州に優勝。翌場所も玉乃島と決定戦を演じ同時に横綱となる。

好敵手玉の海とは何もかも対照的ともいわれ、王者大鵬を一時張出横綱に追いやるなど現代っ子横綱の「北玉時代」を作り上げた。しかし1年程で突然終焉する。北の富士は突如去った好敵手に土俵がおかしくなった。貴ノ花戦の大物言い、7勝6敗から休場、勝ち越しがやっと、不眠症での休場、ハワイでのサーフィン。乱調の土俵だったが1972秋見事に復活。以後琴桜と短い期間だが好敵手となり、輪島北の湖ら新時代の到来を見届け、1974名古屋に3場所休場から2連敗するとあっさり土俵を去った。

はじめ年寄井筒を襲名したものの、千代の山の急死で九重を継承。千代の富士や北勝海を横綱にするなど独自の指導で名伯楽ぶりを発揮。 九重部屋9連覇など九重時代を謳歌。スパッと辞めろという教え通り、両横綱ともさっと身を引いた。

協会では理事を務めたものの、理事選でのゴタゴタからこれもあっさり退職。ちゃんこ店の経営でもと考えていたようだが大相撲中継の解説者となった。

解説としてはこれまでの解説者にない自由奔放さで人気となった。辛口のイメージもあるが単なる辛口ではなく、良いと思うときはストレートに褒めることも多くこの率直さが良かった。北の富士ならではの名言格言も多く残す。「シャケじゃないんだから」「よそ見してた」「子供でも分かる」「マルゲリータ」などなど。

80歳を過ぎて以降、療養生活が続いた。そのまま復帰できなかったのは残念である。横綱長寿記録の83歳を更新したいとも言っていたようだが果たせなかった。

粋と洒脱を体現したような横綱であった。晩年はご隠居のような風情だったが、北の富士の人生を見ると第1幕(横綱時代)、第2幕(九重の師匠)、第3幕(解説者)と三幕がここまですべて充実した横綱もいない。相撲人としてはもっとも良い相撲人生ではなかった。

玉の海が亡くなって53年。玉の海の話ではいつも目を潤ませていたが、突如目の前から去った玉の海と久しぶりの再会をしてるのだろうか。冥福を祈る。


いいなと思ったら応援しよう!