曙が亡くなった
また角界に暗いニュース。元横綱の曙が亡くなった。54歳。7年前に倒れ以来、療養していた。
ハワイからはるばる来日し昭和63春に若乃花・貴乃花らと初土俵。ここから若貴時代が始まった。貴ノ花に高見山と師匠同士の因縁もあってか初土俵時より期待され、実際大成した。
1年後には稽古中に幕内の若瀬川を突き倒し、病院送りとするなど規格外ぶりを発揮。初土俵以来負け越しなく関脇まで昇進。その驚異さは小錦の登場以上だったかもしれない。
貴乃花より先だって平成4夏後大関昇進、大関4場所で横綱昇進。5場所の横綱空位を埋めた。この頃は突っ張り一本で殆どの相手を仕留めている。組んでも豪快な投げがあり憎らしい程の無敵さがあった。
貴乃花との対戦は正に好敵手。初めは突っ張りで先手を取ると曙だったが、貴乃花の急進とともに苦しくなり、四つの技能に磨きをかけ互角の勝負となった。対戦成績は25勝25敗。両者の実績から見て実力伯仲の史上最高の時代ともいえる。
曙は後進の指導に熱心で、自分以上に気に掛けることも多かった。さらに相撲ぶりと異なり、非常に気遣いをする繊細な人物で礼儀正しさに定評があった。この点みても親方としての期待があったが、早くに角界を去ったのは残念で、ある意味角界の損失である。
また昇進時の立行司であった28代木村庄之助を非常に尊敬し、日本の父とも慕っていた。庄之助も曙を理解し、相撲史をはじめとした日本の文化や心構えを教え込んだ。曙の人間性は生来の面もあるがこの辺り、周囲の人間にも恵まれた賜物であろう。その点朝青龍はじめとした近年の力士の不行跡には周囲にも問題が多く在ったと愚考してしまう。
全盛期は巨漢の宿命とはいえ意外と短かったといわれる。平成5年に横綱となったが、よくて平成7年初めごろまで。それ以降は肥大化する身体と膝をはじめとしたケガに苦しんだ。外国人という事もあってか閉鎖的な横審は曙に厳しく、平成11年にはいったん引退届を提出する程であった。慰留され再起をかけ、平11名に出島と優勝決定戦、平成12年より復調、12名に13連勝で優勝、12秋も13勝と突っ張り、四つと自在な第二期の到来であった。特に12九州は初日から圧倒、14勝で優勝と集大成とした。この場所は横綱大関7人撃破という記録を残している。
横綱初期には二子山、晩年の武蔵川という大きな護送軍団に一人で立ち向かっただけに記録以上に偉大と感じる。
第二期曙時代かと思われたが、その次場所後突然の引退。もはや膝は限界であった。優勝後1場所も出場なしの引退は栃木山以来で、その後白鵬がいる。まさに精魂燃え尽きての引退であった。
引退後5年時限の曙親方となったが、現役時の後援会とのトラブルからか、年寄名跡の入手が難しく格闘技界に入った。K-1に参戦し大晦日のあの勝負。惨敗だがある意味曙のピークだったか。その後プロレスに移り看板として活躍していたが、プロレスにも全盛期の勢いはなく曙も苦労が多かっただろう。
48歳で遠征先で倒れ、心停止の影響からか重度の後遺症が残った。足腰も細くなり生活全般に介護が必要に。往年の姿とは大きく変わっていた。
10歳の時にアメフトで膝を負傷というだけ入門時からけがは深刻だった。さらに痛み止めの服用で心臓はじめ負担が大きかった。よくこれ程の実績を残したものだ。
前述のようにこれ程の苦労がありながら、横審より厳しく指弾されていた。特に平井義一議員(だったか?)は引退勧告を出せと強硬で、読売大相撲誌上で特集記事まで組まれた。
せめて60までは生きたかっただろう。後5年。横綱は往々にして短命とはいえ早い。師匠高見山は後継となった潮丸に曙と先立たれた。何とも無念だ。