ひとことはなし133

2020  8  29
僕は会長になる前、庭木の手入れ※剪定という意味  をする庭師の仕事をしていました。期間は1年ちょっとくらいですから素人に毛が生えた程度です。

仕事を辞めて会長になると、それを話のネタにするので「うちの剪定をしてくれ」という話が当時はかなりありました。
「いいですよ」と安請け合いをしていたのですが、すぐ限界を感じるようになります。

ある日、前会長から、
「今の天理教は御用ばかりで日を越している。一番大事な人だすけや布教に歩かない。そういう通り方をしていると教会は潰れる」と言い渡されました。又、
「親が作った信者の上にあぐらをかいて通るな」とは何度も言われました。最後は「剪定ハサミは持つな」と言われました。

当時僕は、時の大教会長様から大教会の庭木の手入れを任されていました。
前会長の言葉との板挟みになりながら勤めていました。
大教会の庭は広大で木の数が多いので、一人でできる範囲は知れています。
前会長の言葉が重く我が心を覆いながら、でも大教会長様の御用でもあるしと、本当に悩みながら剪定していました。

で、大教会神殿当番当番最終日、木を手入れしている時低い所を膝をついて手入れしていますと、急に膝が腫れ上がってきました。
すると膝が熱を持ってパンパンに腫れた事で、もう剪定は無理だと判断し、大教会を後にしました。
そのまま病院へ行くと「虫刺されでしょう」という事で、抗生物質を打ちながら、足は棒のような形で6日の祭典を勤めた。しばらく治りませんでした。

当時は、前会長の言う事を聞けばあちらが立たずで、一体誰の言う事を聞けばいいのか大変悩んだ時でした。が、この事がキッカケとなり、僕はハサミを持つのをやめました。
誰が何と言おうと、それ以降頼にまれてもハサミは持ちませんでした。
上級は別ですが。

その後、大教会長様から、庭木剪定の催促を何度も受けましたが、一切手を出しませんでした。そうなると大教会に行くのが辛かったですね。
その後は声が一切かからなくなりました。

しかし、今となっては良かったと思います。
もしあの時から手入れを受け続けていたら、どうなっていたでしょうか。
人間は苦しい道と楽な道とあれば、自然、楽な方を行くのではないでしょうか。
当時の僕は手入れという御用の方が圧倒的に楽な道でした。それで1日が終わるのですから楽です。布教は出来る事なら出たくない。という時です。

後々、御用や御供は徳積みにはなるが、それだけでは因縁は切れない事が分かりました。頭では分かっても、心が楽な方をとりますね。前会長はこの点を仕込みたかったのだと思います。

ただ、おたすけ先でご守護を頂こうと思えば、御用を受け理と徳を伏せ込まないと神様が働いてくれません。なので、おたすけと御用は車の両輪です。どちらが欠けても成り立ちません。バランスですね。

では終わります。拝

いいなと思ったら応援しよう!