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『ボーはおそれている』と『アルジャーノンに花束を』- 共鳴する2つの物語 -

アリ・アスター監督待望の新作『ボーはおそれている』への個人的見解と『アルジャーノンに花束を』との共通項を紐解いていこうと思います。また、観た勢いそのままに書いてますので間違っているところ等もあるかもしれませんがご了承下さい。

以下、ネタバレを含みます。


本作と『アルジャーノンに花束を』のあらすじ

ボーはおそれている あらすじ

日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男ボーは、つい先ほどまで電話で会話していた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。その後も奇妙で予想外な出来事が次々と起こり、現実なのか妄想なのかも分からないまま、ボーの里帰りはいつしか壮大な旅へと変貌していく。

https://www.oricon.co.jp/special/66709/

アルジャーノンに花束を あらすじ

32歳になっても幼児の知能しかないパン屋の店員チャーリイ・ゴードン。そんな彼に、夢のような話が舞いこんだ。大学の偉い先生が頭をよくしてくれるというのだ。この申し出にとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に、連日検査を受けることに。やがて手術により、チャーリイは天才に変貌したが…超知能を手に入れた青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を通して人間の心の真実に迫り、全世界が涙した現代の聖書(バイブル)。

https://bookmeter.com/books/2145

大まかなシーケンス

1 冒頭 胎内

2 セラピスト 自宅 母が亡くなったと知らされる

3 イカれた娘の家(シンナー)

4 親とのトラブルを抱えた人々の森・劇団

5 葬儀場 母が生きている セラピストと母はグルで終始監視されていた 父は天井裏で生きていた?大きな男性器の化け物がいた

6 ラスト ボートで洞窟・穴の中へ(膣?)
洞窟の中で公開裁判、過去のVTRを見ながら一つずつボーの過ちが検証される

単語から読み解く本作

理不尽・不条理

ボーの身に降り掛かるあれこれは、どれもボーの生活に対してマイナスな方向にしか働きません。まるでボーのいる世界をことごとく邪魔するかのように。その一例として分かり易いのがアパートでの一場面ですね。

ボーが眠ろうとするとドアの隙間から「うるさいから静かにしろ」という旨の手紙が差し込まれます。ただ眠ろうとしているボーに対して不自然に送られるその手紙が指し示すのはどういった意味か。

考えうるパターンは2つだと思います。

1つ目は隣人も同じく何かしらの疾患を患っていて幻聴・幻覚に悩まされている。

2つ目はそもそもそんな手紙は現実には送られていない。

恐らくこの2つだと思いましたが、どちらでもない可能性も考えられます。

この映画が私達を悩ませる原因はまさにそこで、「常にあらゆる可能性を考慮して見なければいけない」という点と「一瞬にして起こる不条理の連続性」という点を同時に処理しなければいけないというところにあると思います。

上記の2点はアリ・アスター監督の狙いの一つでもあると思います。ボーの生活、ボーからみた世界を如何にして表現し、観客に馴染ませるか、ボーの目線と観客の目線の両立というのが1つこの映画を読み解く上でキーワードだと考えています。

余談ですが不条理と聞くとデッドマン・ワンダーランドのこのコマを思い出してしまいます笑

親子・家族

アリ・アスター監督の過去作、『ヘレディタリー/継承』、『ミッドサマー』、そして本作でも親子・家族というものを物語の軸に据えていました。

芸人・こがけんさんとの対談で語っていた「家族関係なんて上手くいかない方が自然」という言葉。確かに監督の長編映画に共通することですよね。

ボーは何故こうなってしまって、母親は何故ボーを責め立てるのか。(ラストシーンの無言の圧を含め)

大事な部分は冒頭に集約されているのではないかと考えます。

母親は胎内から聞こえるかすかな声の先で医者に対して「この子を落としたでしょ」と怒鳴っていました。ボーは覚えていませんが、観客にはそれが見えている。つまり、ボーが産まれてから母親が変化したのでは無く、母親はずっとあの性格だったということが冒頭から分かります。葬儀場での場面では「両親からは大事にされた記憶がない」という旨のことも言っていた気がします。育てられた環境が生きる上で重要だということ、同時に親も人間であるということ、ここでも同時並行した考えが浮かびます。

全ては因果の連鎖で起こるべくして起こっているかのように見ることが出来ますね。

記憶

記憶というのが如何に不確かであるか、それはこれを読んでいる皆さんも分かっていることだとは思います。私は記憶は記憶であるから美しかったり、悲しかったり、その状態を保つことが記憶そのものの存在価値であると考えています。

この考えは本作には通用しません。
クスリ漬けの娘・トニが2階からスマホで盗撮したり、ボーに大麻を吸わせる時にもカメラを向けたり、ラストには公開裁判のパートが有り、とこのように記憶の検証が行われるようなシーンはいくつかのパートにばら撒かれてラストへ向かいます。

ラストシーンの公開裁判を見てる時に感じたのはSNSの事でした。カメラに映ったモノが全てで言い訳は許されない、記憶違いや勘違いだと反論しても説得力が無い。最終的には大衆からの弾圧によって沈むボー。今の時代、記憶が無価値になりつつあるのでは無いか、そういった危機感すら覚えるシーン。

そこに至るまでのプロセスや物語も考慮すべきでは?と言った現代人に対してのメッセージを受け取った気がします。

統合失調症(パラノイア)

夢遊病、双極性障害の妹、そして統合失調症、これまた監督のフィルモグラフィから見て取れる共通項ですね。

今作の統合失調症について、詳しく知らなかった為、改めて検索すると、内的要因(生まれ持ったストレスに対する強度)と外的要因(外部からの圧力やストレス)の相互作用によって引き起こされる可能性のある疾患だということが分かりました。(統合失調症に対する現状の認識)

親子のパートでも書いた通り、ボーが産まれる前から母親は怒鳴っていたということが分かる為、ボーの症状は先天的なものでは無いと思います。

記憶
のパートでも書きましたが統合失調症かどうかはカメラに撮られた部分だけでは分かりません。

また、私達観客が見ていた殺人鬼やジーヴス(おそらくPTSD)が疾患を持っているかどうか分かりません。

もっと言えば統合失調症やPTSDといった単語はこの映画の中には出てきていない筈なので私達には想像することしかできません。

殺人等、許してはならない場合も含めて、何故その人がそうなってしまったのか、こういった言動を取ってしまったのか、想像するということは非常に価値のある行為だと私は考えています。

男女

この単語が非常に難解です、、、。

エレインとは何だったのか、初恋の人であり、忘れられない人、再会して行為に及んで固まった人、、、難しすぎる。

この単語に関するヒントは回想でのボーと母親の会話の中にあるのでは無いかと考えました。
母親の「男は単純で、その方がいい」という旨の台詞。

そして、過去作『ミッドサマー』で描かれた性行為の描写は儀式的に描かれていたし、男はものすごく欲に忠実に描かれていました。

アリ・アスター監督はきっと男女について、どこか神秘的で、同時に儀式めいていて気持ち悪いと言ったような、相反する2つの感情を同時に持ち合わせているのだと思います。(これはかなり私の主観が大きい)

そう単純には描けない、そういったもどかしさも含めて人間を描くことに向き合っているのだと感じました。

『アルジャーノンに花束を』と今作の構造

たまたま、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を読んでいたこともあり、自分の頭の中で繋がった部分もあるのでこの見出しを思いつきました。

『ボーはおそれている』ではボーが、『アルジャーノンに花束を』ではチャーリーが時折、記憶の旅をします。その記憶の旅の中でボーは幸せだった頃の記憶を、チャーリーは幸せだと思っていた記憶が実は間違いであった、ということを思い出し、知ることになります。

両者は全く別のベクトルで記憶に向き合っていきましたが、その方法は記憶の検証でした。

好きな人や家族に会う為に自分の足を動かし、その目的に向かって動く。目的は何だって良いとは思いますが、これこそ2つの作品に共通する、人間本来の生活の営みでは無いでしょうか。

ブルーライトから離れ、街に繰り出し、しばらく顔を出してなかった居酒屋の人々に会いに行く、そんな些細な日常が記憶の検証の旅によって思い出されますように。

最後に

恐らく私の記事に記憶違いやバグみたいな文章が見つかるかもしれませんがそっとしておいて下さい、わざとでは無いので。

ちなみに、長々と書いてはいますが今作のシンプルな読後感としては「疲れたなぁ、、、」でした。

ウェス・アンダーソン監督の映画を観終わった後にも感じたことのある虚脱感でしたね。

圧倒的物量に耐えられなくなった脳でこの記事を書いたのでどうか皆様に読んでいただけると幸いです。良い記事だと思ったらフォローといいねもよろしくお願いします。

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