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東京 孤独との闘いの始まり

私の東京暮らしは、中野駅から歩いて10分ほどの六畳一間の部屋から始まった。

神田川は近くには無かったが、近くに線路があって列車が通る音が聞こえていた。

非常に古い建物で、玄関で靴を脱いで上がり、風呂もなく、トイレも共用で小さなタイルの流しがついた、西側の日当たりの悪い部屋だった。

そのアパートには大屋のお婆さんがいたが、部屋を借りていたのは殆どが若い男ばかりということだった。

と言っても、私は他の住人の顔は殆ど知らないまま、一年で引っ越しした。


大学院は東急東横線の駅近くに当時はあったので、通うのに新宿と渋谷で乗り換えて一時間以上かかった。

学校から離れたところに下宿したのは、下宿の大屋さんが知りあいだったからだ。

今はその校舎は八王子に移されて、その場所は公園になっている。

大学の建物も古く、院生の集まる研究室も20人も入ればいっぱいになった。

大学と違って毎日授業があるわけで無く、講義やゼミがある時、そして隔週に行われる夕方からの研究会に参加するだけだった。

院生の数も少なく、すぐに気安く話せる同級生や先輩ができたが、たまにしか会う機会は無かった。

その頃のことで憶えているのは、文化人類学を専攻している院生の交流ソフトボール大会だ。

東大や一橋大の著名な先生も参加してくれていて驚いた。


講義やゼミが始まるのは五月の連休明けと言うことで、それまではとにかくアルバイトで少しでも金を稼ぐことに専念した。

最初にやったアルバイトは、中野郵便局内の短期間の仕分け等の仕事だった。

これは大学生が多くいて、みんなと賑やかに楽しくやったり一緒に飲んだりした。

大学院の講義等が始まっても、バイトは続けねばならなかったので、家庭教師センターへの登録はしたが、直ぐには紹介して貰えなかった。

そこで、警備員の仕事に応募して、研修後に三鷹にある私立高校の宿直の仕事をすることになった。

仕事を覚えるまでは、経験ある警備員さんと二人だったが、慣れると一人になって、孤独な仕事となったが収入は安定してきた。

ただ、慣れぬ仕事の辛さと勉強のできない焦りから、かなに電話で当たってしまうことがあって、辛い思いをさせていた。


<白昼夢>東京暮らしを始めた頃

俺な 東京暮らしを始めた頃 おまえにひどいこと言ったりして 悪かったと思ってる

いいのよ あなたの辛い気持ちは よく分かっていたから

やっと 落ち着いて 山口の家に 行った時は ほんま 楽しかった

私もよ ほんとに短い時間だったけど あなたに逢えて やっと安心できたのよ 

電話なんかより よっぽど 気持ち伝わるもんな 離れてると 特に

一緒に行った 海 綺麗だったでしょ 私も久しぶりだったの

島が見えん瀬戸内 初めて見て 驚いたよ こんど 泳ぎに行こうて 手紙に書いてたな

そうね あなたの家の近くの岬も もう一度行きたかったわ

あれだけ 一緒に海に行ったのに 泳いだことなかったな

泳ぎは苦手で 小学校の採用試験のために 練習したわ

こんど 一緒に 海行こうか バタフライ見せたるわ

私はこの歳では 無理よ でも バタフライ 見てみたい

よし 練習再開しとくわ 


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