ときめく香りと長い黒髪
かなは別れる時に、結婚指輪と香水アトマイザーを私に返した。
結婚指輪はかなが東京に出てくる前に、安売りの販売会で買ったプラチナの指輪で、かなの指に合わせたものだった。
指輪は以前にも大学時代に安い銀製のものをプレゼントしていた。
教員採用試験で小田原でふたりで宿泊した時に、無くししてしまっていた。
かなが旅館に忘れたというので、わざわざ取りに戻ったが、無いといわれたものだ。
かなが東京に出てくる時に、結婚式は挙げられないので、せめて指輪でもと買った物だった。
しかし、別れた時に、その指輪は見るのも嫌で、海に投げ捨ててしまった。
それなのに、どういうわけか、彼女がつけていた香水が残るアトマイザーだけはそのまま残していた。
これは大学生の頃に、誕生プレゼントとして買ってあげた物で、装飾として私の星座の牡羊座が彫ってあった。
そんなに高価な物ではなかったのだが、かなは私だと思って大切に持ち続けてくれていた。
私は手紙や写真などと一緒に、その銀色の小さなアトマイザーを入れてプラスティックのボックスの中に保管していた。
その容器から漏れ出した香りが、残された品々にうつっていた。
大分年数が経っているので、香りも当時とは変わっているとは思うが、良い香りを今でもさせている。
なんとなく、それがかなの香りのようで懐かしい。
写真や声などはデジタル化して、視覚的に当時を再現させてくれるのだが、香りはそれとは違ってもっと体感的に再現してくれる。
よく、歌にも「あなたのにおい」というのは、部屋に残されたり、衣服に残された物を懐かしむ。
たぶん、私の記憶の深いところで、かなの匂いを忘れずにいると思う。
それは、肌を重ねた者同士しか、知らない匂いでもある。
かなはどちらかというと、匂いが強い方だった。
たぶん、香水の香りとかなの匂いが混じった匂いが、記憶に残っているのだと思う。
そのアトマイザーの香水が指について、それを嗅いでみることで、かなを思い出すこともできる。
そして、忘れられないのは、かなの長い黒髪である。
私は、女性の美しいロングヘアーが好きだった。
そのことを、かなに話していた。
付き合い始めた頃からその年の夏までは、そんなに長い髪では無かった。
かなが卒業する頃は、髪もかなり長くなっていた。
卒業式には、1本にまとめて三つ編みにして、私に見せにアパートまで来てくれた。
その夜は、その髪が崩れないように、顔を下向きで眠っていたのを憶えている。
その大切な長い髪も、就職して勤め始めたからは、短くしてどちらかというと、ボーイッシュにしていた。
ボーイッシュなかなも可愛く感じていた。
私は妻の道子に、中途半端な長さよりいっそボーイッシュにすればと言ったことがあるが、絶対しない。
二人でドライブに出かけているときのことだった。
このごろ、私の髪も学生時代のように長くなったので、道子にたずねた。
「もし、若い頃恋人がいて、長い髪にして欲しいと言ったら する?」
「なんで 人から言われて 髪型変えな あかんの」
にべも無かった。
聞いた私が馬鹿だった。
道子はかなの長い髪のことは知らないとはいえ、私のために髪を長くしていたかなのことを、否定されたような気がした。
当然、昔の恋人であり妻だった人が、自分の好みの髪型をしてくれていたとは、言えるはずもなかった。
急に黙り込んだ私に何か感じたのか、道子の方から優しい言葉を使い始めた。
考えてみれば、最初はかなは私の好みに髪型を合わせていた。
結婚して仕事につくと、仕事に髪型を合わせていたのだ。
道子は私にも仕事にも関係なく、自分のスタイルを通しているだけだ。
私は女性が髪型に込めている気持ちに、もっと気をつけるべきなのだろう。
ただ、思い出としては、かなの長い黒髪は、一番愛してくれていた時の、目に見える愛の証でもあったことは確かである。
そして、その長い髪を切ったとき、私の好みとは関係の無い、かな自身のスタイルを持ち始めていた。
そのことを、しっかりと分かっていれば・・・・・