新宿西落合 ふたり暮らしの始まり
ふたりで暮らし始めたところは、西武新宿線の新井薬師前駅から北に10分ほど歩いたところで、住所は新宿区西落合だった。
新宿と言えば、高層ビル街をイメージするだろうが、ふたりが住んだのは、落ち着いた住宅地だった。
近くには哲学堂があって、散歩に行って気晴らしするには良いところだった。
また、その傍には妙正寺川が流れていて、哲学堂付近では風情があった。
場所的には非常に良いところだったのだが、高い家賃が払えないので、風呂がなかった。
下には年老いた大屋さんが住んでいるし、隣はその大屋さんの息子が一人で住んでいた。
部屋は二階の2DKで、窓は南と西にあった。
哲学堂には自然が残っていたので、窓にご飯の食べ残しを置いておくと、野鳩が食べに来た。
一度、そのご飯を入れた箱の蓋に、ドテッとつまづいてバタバタした。
かなはその鳩のことを、「ドテちゃん」と呼んでやってくるのを楽しみにしていた。
とにかく、中野の西向きの暗い部屋から、明るくて広いアパートで暮らせるようになった。
かなが来てくれたお陰で、私は暗くて孤独な暮らしから、抜け出すことができた。
入籍は、郵送した婚姻届を、私の地元の市役所で父が済ましてくれて、かなが来た5日後には正式な夫婦となっていた。
しかし、本来なら新婚夫婦のように、甘い生活が始まったのだろうが、無理を強いてかなを呼び寄せたことのしこりが残っていた。
それでも、じっくり話すことができたので、そのわだかまりも徐々になくなっていった。
かつての名古屋のアパートとは違い、堂々とふたりで近くの銭湯に行ったり街に出かけることができて、毎日が少しずつ楽しくなっていった。
ただ、かなは仕事が直ぐには見つからなかったので、気持ちの上では不安を抱えたままだった。
そこで、このところ出費が続いて痛かったが、弟に運転を頼んで3人でドライブ旅行に行くことになった。
私の弟の成二は、父の会社の本社に採用されて、横浜の磯子の寮から丸の内に通っていた。
前年から私のアパートに泊まりがけで来て、悩みを聞いてやったりした。
阪大出身の弟はいわゆる大企業の東大、京大出身ののエリート集団の中で働くのは大変だったらしく、壁を感じるとぼやいていた。
私は当時運転免許を持っていなかったので、安いレンタカーを借りて弟に頼んで運転して貰い、4月末の連休に3人で千葉方面に出かけた。
成二と一緒に行ったお陰で、二人の写真をいっぱい撮ることができた。
犬吠埼での荒れた海の前で撮った写真や、マザー牧場で菜の花の中で撮った写真が残っている。
二人はいつもの安物の革ジャンをきて、並んで写っている。
かなはどちらかというと明るい性格だったが、この時の写真には笑顔はなかった。
まだ、親を捨てて家から出てきた辛い気持ちが、癒えてはなかった。
そのことが写真には、そのまま表情に写っていた。
泊まりは九十九里浜の海岸で、ふたりは一緒にテントの中で寝て、弟は車中泊した。
夕方の遠くまで伸びる砂浜に、暮れなずむ海の景色はいまだに忘れられない。
成二は、飲んでいたのにも関わらず、私が無くなった酒を買ってくるように言ったので、車で買いに行ってくれた。
その帰り、ついてきたパトカーに職務質問されて、ヒヤヒヤしたことをいまだに話す。
当時は飲酒運転はそううるさくなく、ただ海岸に行く車が不審に思われたようだった。
そういう意味では、成二にとっても一生忘れられない思い出となっている。
このドライブでずいぶん気分転換がふたりにもできて、元気が出てきた。
色々と問題を抱えていたふたりだが、何とか解決していこうという、気持ちが湧いてきた。
私たちは既に夫婦になっていたのだが、恋人同士の延長でしかなかった。
弟以外にも、うちのアパートは便利なところにあったので、ふたりの友達や後輩が泊まりがけで来たりした。
元々、フィールドワークや合宿で仲間と寝泊まりする経験をふたりともしているので、何の差し障りなく家に招くこともできた。
駆け落ちした夫婦ではあったが、世間から遠ざかった夫婦ではなく、非常に開放的は夫婦でもあった。
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