愛がいきづく場所
7月になって家庭教師も紹介されて、宿直のバイトと掛け持ちで忙しい日々が続いて、体調を崩したりもした。
そんな中、奨学金つづいて授業料減免も却下されて、心が荒んでいった。
それでも、かなが神奈川県の教員採用試験の受験のためにやってきて、小田原で一緒に1泊だけ一緒に過ごすこともできた。
どういうわけか、かなと逢っていた時のことよりも、彼女が受験している間、小田原の海岸でぼうっと海を見ていたことを憶えている。
8月になってかなの母親が入院してしまい、当初泊まりがけで、私の実家にくる予定も、日帰りとなってしまった。
家の近くの海岸の公園に行って、ふたりだけの時間を過ごすしか無かった。
結局、かなとの想い出の場所として、今でもすぐに行ける場所となり、そこにくる度に彼女を思い出すことになった。
結局、やっと10月になって、東京にかなが出てこられるようになって、初めて私の住むアパートの部屋に入ってふたりきりになれた。
アパートは女性を泊められるような所ではなかった、
その前に迎えに行った東京駅で予約した新宿で宿泊する予定だったので、ひとまず近くの酒場で食事をした。
少しお酒を飲んだのだが、かなは貧血を起こしてしまい、私が支払いをしている時に倒れて頭を打ってしまった。
倒れる前に私の腕をつかもうとしたのに、とっさ的に振りほどいてしまった。
本来なら倒れそうなかなを抱き留めるべきなのに、できなかった自分を自分で今でも責め続けている。
幸いたいしたことはなかったのだが、しばらくは横になって、店の人におしぼりで頭を冷やして貰っていた。
その後、新宿のホテルで、久しぶりにふたりゆっくり過ごすことができた。
そして、正月になると、かなはやっと泊まりがけで、私の実家に来ることが親から許された。
かなと実家で過ごせたのは、この年と翌年の二度だけだが、今でも直ぐに行けるかなとの想い出の場所は、私の実家である。
かなが初めて私の実家に来たのは、さかのぼって私が東京に移る前の3月だった。
初めて私の両親に会うというので、かなも緊張していた。
それよりも緊張していたのは父で、いつも休日は朝から飲んでいたが、その日も飲んでいた。
いつもよりかなり機嫌が良くて、驚いたことに父は一人称で「ぼく」という言葉を使った。
造船所の修理工をしていて、気の荒かったが父が「ぼく」という言葉を使ったのを聞いたのは最初で最後だった。
隣に住んでいた祖母もわざわざかなに会いに来て、ふだんおかしなことを言ったりしていたので心配したが、この時はまともで安心した。
ふたりきりになりたくて、バスに乗って岬に行った、
まだ、梅の花は咲いていなかったが、梅林があって海の見える丘の公園を少し下った所に腰をかけてふたりで過ごせた。
今でも、かなに逢いたくなると、ここに車で一人やってくる。
だけど、綺麗に整備されてしまって、どこでふたりが会ったのか分からない。
それでも、その時見下ろした海岸の景色から推測して、そこらしき場所でかなとふたり過ごした情景を思い起こしている。
まさしく小田和正の「緑の街」の歌詞の再現で有る。
忘れられない人がいる どうしても 逢いたくて
また ここに来る 思い出の場所へ
実際この場所に来ると、大切なこの歌を口ずさんでしまう。
この歌こそ、私のかなへの気持ちを一番伝えられる曲だからである。
私の実家は、父母も亡くなってしまって、今は誰も住んでいない。
取り壊して、土地を売却してしまった方が、固定資産税もかからなくて済む。
だけど、ここには両親との思い出だけでなく、自分の青春時代や道子と結婚した後の思い出もいっぱい詰まっていて、家を壊す気にはなれない。
なかでも、かなとふたりで夜を一緒に過ごした場所で、今でも行ける唯一の場所なのである。
先日も、かなとふたりで過ごした二階の部屋にひとりで上がって、当時を想い出すと、自然に涙がこぼれてきた。
家を取り壊してしまうと、思い出も一緒に壊してしまう。
想い出の場所は、かなの愛がまだ私には感じ続けられている大切な場所である。
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