自分の気持ちを置き去りに、斜めってしまう人の話
秋の終わりの居酒屋。
私(ヤマノ)は同僚のT氏とサシで呑んでいた時、彼から思わぬ言葉を聞いた。
「ヤマノさん、僕、そういう時、どうしたらいいのかわからないんです」
T氏は照れ笑いなのか、妙な笑顔をしていた。
わからない、というのは女性との深い付き合い方のことだった。
T氏は私の勤める学習塾の教室長をしていた。
30代後半。独身。私より3、4歳、年上。
中学・高校生向けの理数系の授業を担当していた。
女性の好みが独特なT氏に、ようやく相手が現れた。
私は、ちょっと嬉しくて、どんどん進展してほしい、と思った。なのに、
─深め方がわからない?
理由を尋ねても、彼の説明はためらいがちで曖昧で、なんだかよく、わからなかった。
今まで、女性との付き合いはどうしてきたんだろう。
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件の女性は、彼の教え子らしかった。
彼はうちの学習塾とは別に、専門学校でも教えていた。そこの社会人学生だった。
彼女の方からアピールしてきたようだ。
彼女は頻繁にT氏のところへ質問にきた。
T氏はその学生の面倒を親身によく見た。職業柄だけでなく、T氏は人に頼られ、それに答えるのが好きなのだ。
頻繁に顔を合わせているうち、T氏は彼女の寄せる好意に気付いた。
そして彼も次第に彼女に惹かれていった。
「ヤマノさん、その人、いつも僕の仕事終わりを待っているんですよ。これって好意‥、エヘッ‥、ですよね」
T氏は顔を赤らめ、言葉の途中で照れがこぼれた。
「そうですよ。好きなんですよ、その人。先生(T氏のこと)のこと」
「彼女、授業のない日も質問にきたりするんです。これって‥」
「だから、そうですよ。好きなんですよ、その人。先生のことが」
「‥‥‥。僕、指導にだいぶ、時間を割いてあげたし、意欲ってだけじゃ‥」
「も~、好きなんですよ、その人。先生のことが」
「‥‥‥。空気というか、なんか、距離がね、そういう流れっていうか‥」
「そういう流れって‥。彼女が求めてくるってことですか」
「‥‥‥」
「先生もその方が好きなら、答えてあげたら。あげないとぉ」
私は酔っていたせいもあって、少しムキになっていた。
「僕‥‥‥、そういう時、どうしたらいいのか、わからないんです」
「えっ?? 」
「‥‥‥‥」
「わからないって、自然な気持ちに任せればいいんじゃないですか。女性の気持ちも普通に考えてあげながら、互いの気持ちのオモムクままに、ですねえ」
「うん、まあ、いや」
「身体的不具合が?」
「ないですよ、ないですよ」
T氏は煮え切らない様子だった。とても戸惑っていた。
会話は堂々巡りになった。
彼がなぜ、独身でいるのか、私はずっと不思議だった。
彼は相当な変わり者だが、多分、モテなくはない。
保護者との個人面談などの最中に、縁談を勧める親子さんもいるそうで、出会いの機会も少なくないと思われる。
─変わり者だからか?
何か、自信がない?
受験優先でそれどころではない?
正解のない物事は苦手なのか?
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T氏は一見、親しみやすく、人助けが好きな人間だった。
しかし、やや、独善的で、反応が極端なところもあった。
彼が感じるところの頭ごなしな人間、弱い者いじめをする者、礼儀を欠く相手などには、反感を覚え、ストレートに意見や注意を投げつけたりした。時には巧妙にその顔に泥を塗った。
逆に、彼が“弱者”と感じられた相手は庇護した。例えば、受験生やその保護者、女性全般などは彼にとって基本的に“弱者”だった。
だから職場では、彼のことを、いい人で信頼できると思う人もいれば、腫れ物に触るように接する人もいた。
また、彼は変わり者でもあった。
彼は国内最難関の医学部の受験をライフワークのように続けていた。
医者になりたい、というような理由をあげるが、ならば、受験先を変えればよいのでは?、と周囲から指摘された。彼の実力からすると、受験校を変えれば合格圏内らしい。
しかし、彼はその大学にこだわった。そこは彼の卒業校だった。
彼の受験は職場に迷惑をかけた。その頃は彼の教え子こそ、大事な時期なのだ。目上の講師や事務責任者から毎年、注意を受け、周囲からは呆れられた。
T氏は、正直、面倒な人間だった。
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そんなT氏が、まさかの女性コンプレックス?
そういえば、彼の表情は、私にはいつもとても抑圧的に見えた。
独自の倫理観に縛られている感じ、というのか。おまけに、他人にもそれを当てはめ、さらに自分を追い込んでいる感じだ。
彼の中に何か、「抑圧の種」があって、自身を様々な場面で不自由にしているんだろうか、と私は思った。
その捌け口として、または自己実現や自己表現として、受験をしたり、周囲と衝突したりするんだろうか。
因みに、T氏が件の女性と出会ったのは、受験に“一定の成果”をあげ、それからしばらく経った頃だった。
“一定の成果”というのは、合格ではない。全国共通のマーク試験、続いて、大学独自の筆記試験を突破し、最終関門である面接に進んだ、ということだ。そして当人がどうやら気が済んだ、ということだ。
例年、筆記試験で落ちていた。
そもそも、アラフォーの受験生に医学部の合格は考えづらかった。医師としての将来性を考えると、やはり若者に席が譲られる。本人もそれはわかっていた。
ところが、大学側はT氏に面接試験を許したのだ。
筆記試験の結果が、最終段階を許可せざる得ないほど圧倒的だったのだろうか。それとも、長年、受験にやってくる彼に受験を終わらせてもらおうと、彼の気が済むような特別な対応をしたのか‥。
いずれにしろ、彼は“面接試験での不合格”に終わり、有終の美を飾った。
一つの抑圧が消え、心に余裕ができたのかもしれない。
女性に目が向いた。
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しかし、結局、女性は去っていった。
T氏は自己嫌悪に陥っただろう。
彼女の方も、いい感じになっているのに、なぜ、発展しないのか、一喜一憂の日々だっただろう。あんな堅物を好きになるような女性だから、去る決断も辛かったに違いない。
T氏は、その数年後、労働問題に首を突っ込み始める。
最初は、待遇への不当を訴える同僚の後支えだけだったが、そのうち、当事者より先を走った。
今までにない大きな戦場に、T氏は、血が騒いだだろう。
マスコミにも実名で取り上げられた。
─だが、彼がそんな荒海に乗り出し、
何かしら制したとしても、結局、
心は満たされないんじゃないか
と私には思えた。