三味線の先生らしき高齢女性と、その友人たちの話 その1 仲のよい男性の入院
私(ヤマノ)が十数年来、通う道路端の小さな喫茶店。
最近、店でよく見かける70代くらいの女性は、会話の様子から、どうやら三味線の先生だった。
女性は小柄で品がよかった。か細い声で気だるそうにしゃべるが、会話は軽妙だった。
その女性は、店で見かける度に異なる相手と一緒だった。みな、同年代で、どの相手ともそれなりに話がはずんでいた。
多分、その女性がいろいろな相手をお茶に誘うんだろう。
何かの仲間うちなんだろうか、と私は思った。
私が初めてその女性を見かけた時は、落ち着いた男性と一緒だった。二人の雰囲気から、かつての芸妓と客の関係か、なんて私は想像を飛ばした。
しかしそれから後日、女性が次々、連れてきた人たちはタイプが様々で、お座敷遊びしそうな人はいなかった。
それで私は、同じ高齢者ホームに住む住人同士とか‥?、と思った。
だとしたら、サービス付き高齢者住宅って感じかな。みな、心身とも、しっかりしてそうだし、外出も自由そうだし。
今日も同世代の男性と一緒にコーヒーを飲んでいた。
その相手は、そういえば‥、前にも一緒にいた人かもしれない。多分、私が妄想した“芸妓と客”の、客の人だ。
互いにリラックスしている。
「お正月に泊まりがけで孫が来たの。日帰りでいいのにね。疲れちゃうわよ」
女性が愚痴を口にしていた。
さっきから愚痴を話している。だが、空気は軽い。
相手の男性は楽しそうだった。穏やかに相槌をうち、短く返していた。
「おシャミを習いに来てる女の子がね、覚えはいいんだけど、なんか音が洋風なのね。困っちゃうわね」
「ふーん、面白いな」
「アンドウさん、あの人、いやよぉ。大声でさぁ、うるさくって」
「耳が遠いんだろ」
「あの人は性格よ」
女性はいつも、聞く側に回ることが多いのだが、今日はよくしゃべっている。
話はだんだん、人生の始末の話になっていった。
女性のしゃべりは、世を儚んでいるみたいに聞こえた。三味線の先生だから、自然と心持ちが弦の響きに乗るみたいになるんだろうか。人生観が人と少し違うのかもしれない。
二人はどういう関係なんだろう。
気になる。女性がほかに連れてきていた人たちとはやっぱり違う気がする。
男性がおもむろに自分の話を始めた。
しばらく会えなくなる、というようなことをいった。
「入院する」
「入院?」
そのあとが、ちょっと聞き取れない。
「‥‥」
「‥‥」
音量が少し上がった。
「どうして話してくれないのよ」
「あんたは面倒だからさ」
「面倒なのぉ?」
女性が少し笑った。
やり取りがドラマみたいだな、と私は思った。
おもむろに男性がトイレに立った。
私は手元の雑誌に意識が移った。
2つ、3つの記事を読み終わり、さらにページをめくった。
男性のトイレが長かった。
すると、さっきの女性が突然、立ち上がった。
まっすぐにトイレに向かった。
女性が立ち上がった瞬間、私も、多分、彼女と同じ予感がしていた。
男性が、トイレの中で倒れているのではないか。
私の両親は、ある日、突然、体調が急変し、倒れた。
年齢を取ると、“まさか”の出来事が、“いつ訪れるとも知れない”出来事になる。
だから、常日頃から体調の急変に警戒するようになる。
彼女もそんな心配がよぎったのだろう。
「サカイさん。サカイさん?」
女性はトイレのドア越しに男性を呼びかけていた。
私の脳裏に、救急隊員が店内に駆け込んでくる状況が浮かんだ。
「ごめん」
男性がわりとすんなり、トイレから出てきた。
「も~、びっくりしたわよ。トイレで倒れているんじゃないかと思ったわよ」
それからしばらくして、二人は店を出ていった。
ドアを出る時、男性の後ろに自然と続いた女性の背筋がしゃんとしていた。ほっそりした首。染めムラのない薄茶色のショートヘア、モスピンクの上着。小さめのリュックは女性に人気の旅行ブランドだった。
年齢を重ねても身なりをきちんとかまう人なんだなと思った
私は、二人が舗道を歩く姿を想像した。別れ際に、入院の心配のこととかの言葉を交わすんだろうな、と思った。