“本の虫”を自称した人、(ほか)の話
突然、40代前半の女性上司の口から「本の虫」という言葉が聞かれた。
“本の虫”‥
久々に聞いた。
今じゃ、レトロ語か。
“本の虫”って感じの人、以前にもいたな~、と私(ヤマノ)は思った。
自称・自認しないが多読だった人も。
みんな、その人自身に物語があった。
40代前半、職場の女性上司
聡明で上品な色白美人。少々、潔癖で心配性。仕事のミスにやや、過敏だった。
私が加齢による眼病を患った時、その女性上司が励ましてくれた。
そして、ふと、寂しそうに漏らした。
「私、27歳の時に緑内障になってしまって。それまで本の虫だったんですが…」
20代で緑内障?
私は驚いた。一緒に仕事をしている人が、若い時から静かに病と戦っている人だったなんて。
どこか暗い雰囲気があるな、とは思っていた。
「なんか、字が読みづらいな、と思ったんです。新聞も毎日、好きで読んでたのに、なんかつらくて‥」
と、上司はいい、続けて、
「実家では犬を飼ってて。猫じゃなくて犬でよかったって‥」
と、いって少し笑った。
犬?
「盲導犬になるから」
話が重くならないよう配慮した、彼女の定番の冗談のようだった。
私はその冗談に対して、前向きを心がけつつも、咄嗟に、つまらない冗談で返してしまった。あとで、もっと違う、何かねぎらうような言葉を返せばよかった、と思った。
それにしても“本の虫”かぁ‥。
そんな言葉、忘れてた。
ナナコ
ナナコとは20代の時、職場の同僚として出会った。長い付き合いになる。
読書好きの若い女性が、ある日、緑内障の診断。なんで私が、って思っただろう。ショックと不安でいっぱいになったろう。
これって、うちの女性上司の話なんだけど、そんな気の毒な出来事が、結構、身近にあるんだな、と思ったわ‥
というような趣旨をナナコに話し、共感してもらいたかった。
ところがナナコは淡白な反応だった。
いや、大した反応はなかった。
彼女はニコリとして、“本の虫”の単語にだけ反応した。
「私も本の虫だった。最近はサブスクの映画、ほとんど毎日、観てる」
私たちは50代になっていて、老眼で活字が読みづらくなっていた。加えて、ナナコは最近、白内障と診断されていた。
ナナコは、酒乱の父親に警察沙汰になるほど、しばしば家庭を荒らされた。学生時代には自分から信仰の世界に身を投じ、苛烈な状況で成長した。
だからだろうか。彼女は人の苦労話や不幸にはシビアだった。
とりわけ病気などに対しては、仕方がないこと、としか感じないようだった。
ナナコが“本の虫”というのは頷ける。
彼女は好奇心旺盛だし、子どもの頃から、人生について自問自答を繰り返してきたに違いない。本を通じて古今東西の知恵や知見にヒントを探しただろう。
私が若い頃に勤めていた
会社の上司の奥さん
上司と深酒になり、お宅に泊めていただいたことがある。それ以来、上司の奥さんに親しくしていただいた。
「私、本の虫なんや。2冊とか3冊とか同時に読んでる」
と、ある日、奥さんがいった。
複数の本を並行して読むなんて、私はすごく感心した。私にはその発想さえ、なかった。
奥さんは大学生の時、突然、自身の出自を知ったという。
「何、この写真‥って思ってん。びっくりしたわ。白黒写真で。民族衣裳、着た人たちが写っとって」
彼女は実家の物置で偶然、古い写真を見つけた。
親に確かめ、先祖と知った。
何も聞かされてこなかった。
ショックで家出をした。
彼女が多読になったのは、多分、その頃からかと想像する。
奥さんは結婚して間もない頃、心因性の失語症になった、といった。
朗らかで元気者に見えるが、繊細過ぎる面も多々、垣間見られた。
社交的なご主人に合わせて、彼女もたくさんの人に関わっていた。自ずとキズもたくさん、負うだろう、と思った。
彼女が海を越えたルーツを持つことは、実は早々に上司から聞いていた。彼女はそのことを知らず、自分から私に打ち明けようとしてくれたことがあった。その時、彼女は、30分近くも逡巡した。
高校の級友 オーやん
オーやんも私もヒョロリと身長が高く、体育などで並ぶ時は、だいたい隣だった。それで、なにかしら言葉をかわした。
ある時、オーやんは、自分が読んだ図書室の本を私が辿っている、といった。
それは違う。そもそも私はあまり本を読まない。彼女は多読なため、私が読んだ本など、含まれてしまう。
高校の図書室にいた司書さんに、ぜひに、と薦められて、まー、ならば‥、う~ん、厚いなあ、と借りた本がある。当時、日本で出版されたばかりの『モモ』だ。返却日のギリギリまでかけて読んだ。私の読書はそんな調子だ。
その時はオーやんに上手く、そう言い返せなかった。
オーやんは『モモ』も自発的に読んだだろう。
私はマンガなら、かなり読んでいて、自分でも描いてたんだけどな。
身体測定で並んだ時は、オーやんはキリスト教の洗礼を受けた、と、思いがけない話をした。
「後ろ向きに、バシャーンって浸かったの」
全身式の浸水だったらしい。
「え?全身?後ろ向きに?」
私は、白いワンピースのような服を着た彼女が、古参信者に支えられながら、ゆっくり後ろに傾き、ある角度で、いっきに聖泉に落ちる様子を思い浮かべた。
─異文化‥
と、思った。
中学の同級生 よっさん
中学校の廊下で、ある日、突然、
「ヤマちゃん、キョコンってわかる?」
と、よっさんが私に尋ねてきた。
神妙な顔つきだった。
私は脳内の引き出しにダンコンを見つけ、すぐに察しがついた。
彼女も私が察しがついたことに、すぐに察しがついたようだった。
その頃、映画『エマニュエル夫人』が流行っていて、彼女は訳本を読んでいる最中だ、といった。
私は、いつものように彼女が自室でひっそりと本を読んでいる姿を想像した。
よっさんは父親と継母の三人家族で、継母とは折り合いが悪かった。
だから自室に引きこもって本ばかり読んでいる子だった。
意志を感じさせる太めの眉と、密なまつげに縁取られた真っ黒い瞳。中学生ながら魅惑的なその眼を生き生きと輝かせ、コロコロとよく笑う子だった。だが、ふとしたことで急に冷めて無表情になることがよくあった。
彼女の場合、多分、自分のことは“本の虫”とはいわなかっただろうと思う。
ただの逃避、と、笑っていいそうだった。