三味線の先生らしき高齢女性と、その友人たちの話 その2 仲のよい男性の退院

私(ヤマノ)が十数年来、通う道路端の小さな喫茶店。
最近、よく見かける70代くらいの女性は、どうやら三味線の先生のようだった。
女性は、同年代のいろいろな相手とこの店に来ていた。

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今日も喫茶店で、私が雑誌を読み流していると、高齢の男女一組が入店してきた。
女性は男性を壁側の席に促し、自分は通路側の席に座った。

二人はコーヒーを頼むと静かに雑談を始めた。
「‥‥‥さん、もう退院したかしらね」
女性の声が聞こえてきた。
細くて軽くて気だるい独特な声。
私は、あの三味線の先生だ、と気づいた。
一見、普通の主婦みたいな感じだが、身なりをきちんと整えている。全体に品がある。

女性の問いかけに、壁側に腰掛けた男性は、さあ‥、としか答えなかった。ほかに何かいったかもしれないが、言葉短かで会話に消極的な感じだった。

『退院したかしら』の話には、私は覚えがあった。一ヵ月ほど前、その女性と一緒に来店した別の男性が、入院する話をしていた。多分、その人のことじゃないだろうか。
今日、一緒に来ている男性は共通の知人のようだ。

「あなた、膝、まだ良くならないんでしょ?」
女性が話題を変えた。
「うん‥」

「明日、雨なんですってね。困るわね」
「うん‥」

会話が弾まない様子だ。男性はシャイなんだろうか。または不機嫌?
女性は、入院した男性とはとても仲が良さそうだった。孫や共通の知人の話、病気や人生の後先の話など、いろいろな話をしていた。穏やかで親密な空気に包まれ、私の方までその柔らかさが伝わってきたが‥。
「そろそろ行きましょうか」
と女性がいった。
ずいぶん、早い。女性は、いつもはもっと長居をするのに。
「‥‥うん‥」
二人は店を出ていった。

それから10日ほど経ったある日。
私が店に行くと、奥のテーブルにまた、三味線の先生の女性がいた。
同年代の女性と二人で会話が盛り上がっていた。
終戦後の大変な時代を、どう過ごしていたか、互いに話しているようだった。

「昔はね、今みたいにチャンスがなかったのよ」
と相手の女性がいった。
「そうなのよ。昔はそういう時代」
「20代は私、ダンスしてたのよ」
ダンス?相手の女性はどんな生まれなんだろう、と私は思った。裕福な家の出なんだろうか。それとも貧しくて、稼ぐための踊りをしていたのだろうか。だけど、当時、“ダンス”といえば高尚な感じがする。

二人の席は私の席から離れていたので、詳しい会話はほとんど、聞き取れない。
しかし二人の世界は大きく広がっていて、野外コンサートみたいに、場外の私の方まで会話の断片や雰囲気が漏れ出てきた。

相手の女性の口調は、内容のせいか、多少、世を拗ねたように聞こえた。
三味線の女性は相手の話を受け止めつつ、自分も儚げな細い声で身の上を語っていた。
初めて互いのことを深く知り、認めあっているような雰囲気だった。
二人の会話は止めどなかった。

「大変な経験するわね、今まで生きてると」
三味線の女性が、しみじみいった。
三味線とともに人生を奏でた女性と、ダンスの登竜門にモガいたらしい女性。‥気になる。

そのあとは、二人の共通の知人の話になったようだった。
「私もそんなに深刻に聞くつもりはないわよ」
相手の女性がいった。
なんの話だろう。
私はまたもや勝手に想像した。二人はやはりサ高住の住人仲間で、問題を抱えた仲間がいるのかもしれない。

それから何日かして、また、店で三味線の女性を見つけた。
珍しく一人だった。
窓に向いたカウンター席で、頬杖をついていた。
一人で来たい気分だったんだろうか。

それからまた数日。
三味線の女性は、同年代の男性と話が弾んでいた。
誰とでも、ほどよく付き合える人なんだな、と私は感心した。
彼女は、三味線を弾くだけでなく、人の上に立つ仕事をしていたのかな、と思った。経営者?役員?もしかしたら現役?

二人の会話がひとくだり、終わったところで、女性が優しげに男性に尋ねた。
「奥さんは元気なの?」
なんだ、女性の話相手の男性は独身じゃないんだ、と私は思った。
またもや勝手に、二人はサ高住の住人仲間で、男性は奥さんに先立たれた人かと私は想像していた。
「元気、元気」
「よかったじゃないの。健康が何よりよぉ」
それから話がしばらく弾んだ。
なぜだか私は、女性のことが羨ましい気がした。

さらに半月ほど。
三味線の女性がやはり、同年代の男性とおしゃべりをしていた。
声はほとんど聞こえない。
だが、そのうち、私はその雰囲気から気がついた。
相手は入院していた男性だ。無事、退院していたんだ。
女性はきっと、リラックスして会話を楽しめているだろう。そんな相手なのだ。
互いに一番、しっくりくる相手なんじゃないか、と勝手に想像した。

この日は、私の方がその二人より先に店を出た。

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