記憶に残るもの、自分をつくるもの。
それはある人にとっては美術であり、またある人にとっては音楽である。記憶に残るものは各々の脳みその判断に依存する。
私の記憶に残るものは忘れたい過去だ。そしてその忘れたかった過去が今の己を構成している。こっぴどい皮肉だと自分の脳みそに向けて冷笑するしかない。
しかしながら忘れたくても忘れられなかったのだから脳みそがやはり残しておくべきだと判断したのだろう。辛かったことや失敗したこと俗に言うネガティブな過去が今の私を形作っている。
なぜネガティブな過去が残されてしまったのだろうか。忘れたくなかった優しい過去だってあったはずなのに。
私が思うに、私の脳みそは私を守ろうとしたのだ。ネガティブな過去を脳みその隅々まで植え付けるだけ植え付けといて、今後これ以上似たようなことで傷つかないように現段階から深い傷を刻んでおいているのだろう。極度の厭世家と成り上がってしまった今、そう考えるのが妥当だ。
そんな有能なんだか冷酷なんだかよくわかんない私の脳みそが植え付けたネガティブな過去のおかげで17歳の今、私の輪郭が少しづつ見えていきている。
忙しすぎる癖に押し付けられていく仕事を断れない性格、ひとつの出来事を永遠とネチネチ引きずっていく性格、こいつら全部私だぜ?ほんと、嫌になるわ。でもこの性格も私は嫌いじゃない。断れない仕事を忙しい中死にそうになりながらこなすことも、ひとつの事柄に対して永遠に語れちゃうことも。
自分が必死に生きようとがむしゃらに思考してるこの時間が私を育んでいるのだ。
これからもネガティブな過去が大量生産されていくと思う。その度に出来事を咀嚼して、自己分析をして、飲み込んで、それを画材にまた新たな輪郭を描いていく。この作業こそが生きるという営みなんだろうなと
記憶に残るもの、自分をつくるもの。
を考えて幼いながらに思考したのだ。
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