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【五分くらいで読める】雪の日に海で【三題噺ではない】

雪が降っている。きっと音もなく降っているんだろう。もし音を立てていたとしたらどんな音色を響かせているのだろうか。海面に雪が降りゆく時、もしかしたらほんのわずかに、本当に小さな音が鳴っているのかもしれない。私は下を向けていた顔をなんとなく上げてみる。雪が私の視界で砂嵐の様に舞っていた。いつもの見慣れた景色は雪が舞うだけでこれほどに違って見えるものなのかと少し不思議に思う。防砂林として植えられている松の木には重たそうに雪が積もっている。青い空に生える松の木も、灰色の空から降る真っ白な雪の前では風流は霞んでしまい、雪が持つ特異な幽玄さには抗うことはできなかったようだ。

ひどく頭が痛む。脈打つように私を苦しめてくれる。なぜ自分の体だというのに自らを苦しめる作用が起きているのかが不思議で、不満でもある。両手で頭を抱えてみてもその痛みが弱まることはなく、目の奥までもが痛みだしてきたような気がした。私は頭痛に悩まされている。日常生活や外出先、出勤途中の電車や、車の運転中。いつ起こるかもわからない頭痛に脅えている私は立派な社会不適合者となった。この痛みを纏うことが無ければ私はどれだけ幸福な人生を送ることができたのだろうかと、考えても無駄なことを考えずにはいられない。私はそんな忌むべき頭部を首から上に据え、自らのひどく重い体を引きずり、海を見渡すことができる堤防沿いを歩いている。視界は白く、体の所々の感覚は冷たい。防寒をしてみたものの、少しだけ露出している部分が異常なまでに冷えている。額が冷気に晒されていたからだろうか、キリキリと痛む。しかしそれが、表面の痛みなのか、体内の痛みなのか、もはやわからないくらいに私の全てが冷え切っていた。

堤防に向かう駐車場に車が停めてある。その駐車場に入るために直進してきた道路では、野生の狐が轢かれていた。前方から走ってくる車が狐の死骸を避ける為、私が走行している車線にはみ出してきた。私はクラクションを長く鳴らす。対向車がこちらの車線にはみ出して来るのはわかっていたし、別にクラクションを馬鹿みたいに鳴らす必要はなかったけれど、頭が痛くなり始めた時だったから気が立っていたのだと思う。けたたましくクラクションを鳴らされたことによって、対向車の運転手はどう思っただろうか?腹が立っただろうか?私は、もし相手を不快な気分にさせてしまっていたらどうしようと思うと、急に自分がした行いが浅はかな事だったと後悔する。何故だかどうしても謝りたくなって急ブレーキを踏み、大急ぎでUターンをし先ほどの車を追いかけようとする。するとやはりその途中には狐の死体が転がっており、降り続いている雪のおかげで、地面に血で咲いた大輪の花は白い雪に滲んでいた。私は何故か車を止めてその狐を見つめなければいけない気がしたから、狐の少し手前の路肩に車を止め、ドアをガチャリと開ける。車内の暖房に慣れていた体に、ひどく冷たい外気が刺さったが、気にすることもなくサクサクと雪に足跡をつけながら狐の元へ向かった。

狐は横向きに倒れている。こちら側を向けている目は半開きで、口も同じように半開きで舌が零れていた。この狐は、今日ここで命を落とすということを少しでも考えていただろうか?真っ白な雪の絨毯に包まることになるなど全く思ってもいなかったはずだ。痛かっただろうか。車に轢かれる瞬間や、その直後はどうだったんだろう。死にたくないとでも思ったのだろうか?何を思ったところでこの狐に命が戻ることはないけれど、できることならば私のような不要な人間の命を使って欲しかった。何故君が死ななければいけなかったんだろうね。何も生きる価値もない私のような人間が生きているというのに。ごめんなさい。小さくそう一言だけ呟いて私は車に戻った。再度Uターンをし堤防沿いの駐車場を目指す。ふとルームミラーを見てみると、横たわった狐の姿がとても小さくなってしまっていることに気付き、とても悲しい気持ちになった。

堤防を歩きながら、先ほどの狐がまた車に轢かれていないか心配になった。そんなことに頭を悩ませる必要などないというのに。相変わらず雪は降り続いているが、先ほどよりも激しく降っているようで、耳をすませば、雪と雪がこすれ合う音が聞こえるのではないかと思うほどだった。そして黒と灰色の中間のような空には、真っ白な雪が舞っているから、この世界のすべてがモノクロになった錯覚に陥ってしまう。そういえば今着ているカーキ色のモッズコートも雪の水分を吸って大分黒ずんで見える。フードの中には雪が積もり、ファーの部分は、風呂上りの髪の毛のようだった。水分をはじく素材でもないのでコートは段々と重みが増してきている。最近何故だかわからないけれど、倦怠感のような感覚が私にまとわりついていて、ひどく体を重く感じていた。そんな自分自身を何とか引きずりながらここまで歩いてみたけれど、どうやらそろそろ限界のようだ。大して歩いたわけでもないが、きっと心はとうの昔に折れていたんだろうなとぼんやり思った。

私は最後の力をふり絞ろうと決めた。堤防から砂浜に続く階段に足を掛ける。雪が降りしきる中を歩いていたから、足先の感覚はなく、膝の関節がギシギシと痛んだ。頭痛を覚えながら、寒さで体が固まっていたからか、ひどく肩が凝ってしまい、めまいや吐き気を覚えている。視界の悪くなった瞳で空を見上げると、雪が空中で渦を巻くように荒れ狂っている。そのまま視線を下ろしていけば、荒れて真っ白な水しぶきを上げる海が眼前に広がっていた。いつもならば向こうに見える水平線は、今日は靄がかかっているから見ることはできないが、きっとその光景を目にすることはもうないだろう。

汀に歩を進めていると、勢いよく寄せてくる波が私の足を飲み込んでいく。足先の感覚はなかったけれど、やはり海水に直接触れるとその冷たさは身を切るほどのものだった。もしかしたら私はまだほんの一握りの希望に縋り付こうとしていたのかもしれないけれど、足が水に濡れてしまった事で全ての事が本当にどうでもよくなってしまった。その場に膝をつき、海水の冷たさを感じた時、私の目から温かい涙が零れた。どうして私なんかが生まれてきてしまったんだろう。目の前に広がる美しいモノクロの世界を感じることはできるのに、その間も私の頭はずっと痛んでいる。美しいものをただ美しいと感じたかっただけなのに、余計な感覚が私の邪魔をする。何故狐が私の生きている場所で死んでいるんだ。恥を感じながら生きている死にたがりの私は、罪悪感を覚えずにはいられないではないか。ただ普通に生きることも難しいというのに、私の心を握り潰す光景が私の視界にどうしても飛び込んでくる。どうして、どうして私なんだ。なんで、私が、私だけがこれほどまでに孤独で不安で生きることに苦しまなければならなかったんだ。

ゆっくりと、ひどくゆっくりと四つん這いで沖へと向かう。私の涙が、顔に触れる雪と混ざりあう。もう涙なのか雪なのか判別もつかない。海中に体を滑り込ませていくと、衣服が大量の水を吸い、思うように体を動かす事ができなくなってきた。いやこれは服の重さではなく体の冷えだろうか?四つん這いでは顔を出すことができない深さになったとき、外の音が遮断され、私は全身を海に抱きしめられた。冷たい海水かもしれないけれど、このまま少しずつ意識を失っていくことができたら、私は大きくとてもあたたかな何かに包まれるような気がした。

コポコポと気泡が海面に上がっていくのがぼんやりと見える。薄れていく意識の中で海の中は案外温かいんだなあと思った。今海面から顔を出せば、濡れた顔に冷たい雪と、激しく吹き荒ぶ風が私を凍えさせるのだろう。もう私は冷たい世界には帰りたくはない。温かい毛布に包まれて、何の不安を感じることもなく生きていた頃に戻るんだ。怖くて、怖くてたまらない日々に別れを告げる。

もっともっと生きていたかった。誰よりも幸せになりたかった。怖くて怖くてたまらない。ここでは何も聞こえないし、ぼんやりとした光景がどこまでも続いているだけだ。だからきっと、いつまでも眠りにつくことができる。やっと安心できる。ああ。私は今幸せだ。だから誰か、少しでもいい。私を抱きしめてくれないか?いや、それより道路に横たわっているあの狐を撫でてやってほしい。私は今幸せだから。

終わり

©yasu2023

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