バンドの話しその2
高校の友人たちとは名古屋のインチキ音楽レーベル「オロチレーベル」というのを名乗っていて、時間軸は確かかどうか忘れてしまったが、その頃オロチ社長の地元の常滑市のローカルケーブルテレビで「ロック大学」という番組をやっていた。自分もちょこちょこ参加していたのだけれど大学のサークルと同時に少林寺拳法部にも入っていたので忙しくてあまりオロチレーベルの友人たちとは会ってなかったような気がする。
とにかく「レモンフーリガン」は誕生し、ボーカルのメーテル(男です。メーテルリンクから取ったらしい。童話青い鳥の作者)が大槻ケンヂのラジオにカセットテープ(その頃はテープでした)を送ったところ、東京の「のほほん学校?」というイベントに出ることになった。
ドラムで出てくれと言われたんだけど、その頃自分はちょっとしたトラブルがあって裁判所に行く日と被ってしまい弟のラグビーポールがベース、オロチレーベルの社長オロチがドラム、そんでボーカルのメーテル、ギターのらいむさん。という編成で東京に行くこととなった。
私は刑事事件にならずに調停で済むことになった。
「レモンフーリガン」は前座ながら割と人気があったらしく、東京の人間パーカッションをやる人(うーむ。名前を忘れてしまった)にも気に入られ、ちょくちょく東京でライブに呼ばれたりしていた。
その頃ラグビーポール脱退。社長がベースで私がドラム、ギターとポーカルとギターは同じ。という編成に落ち着いた。
名古屋でもまだライブハウスが沢山あった頃で新栄の「クラブロックンロール」や今池の「ハックフィン」鶴舞の「デイトリップ」と言ったような小さなライブハウスで演奏していた。ギターのらいむさんは歯でギターを弾いたり、背中でギターを弾いたり、最終的にギターをぶっ壊す。というパフォーマンスでどっかで出禁になったりもした。
うちの実家の前でギターを破壊して帰る。というよくわからない事もしていてかなりの偏屈な人だった。しかしギターは上手い。エフェクターとリビドー全開だった。
その3へ続く
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