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【こぼれ落ちた断片02】ある日の遭遇 その2

彼はたぶんいつもの安売りスーパーに行くところだった。自宅からスーパーへ行く道のりの半分よりもスーパーに近い地点のなだらかな登り坂を自転車で進んでいた。その様子は、深く物思いに耽っているようにも見えた。

マリは車だった。三男を保育園に預けてから、駅のそばのショッピングモールに車を停めて電車で出かけるところだった。よく見慣れた人の姿を認めると嬉しくなってすぐに助手席の窓を開けて、
「イクミさーん!」
とありったけの黄色い声で彼を呼んだ。

交通量の多い大きな道だから、速度はノロノロではあっても停車して会話をするのは顰蹙な状況、声だって歩道にいる彼に届くか届かないかという具合である。マリは彼に声をかけて、彼が気がついたら大きく手を振って走り去る、ということぐらいしかできなかった。

彼は、路上で黄色い声で呼び止められるなどという経験は人生のうちであまりなかったのであろう。ハッと物思いから我に返ると、すごい勢いで辺りをキョロキョロ見回している。

彼も乗せたことがあり、彼がマリの車だと十分認識しているはずの車がすぐ横にいるのに、彼がそれに気づくのにはやや時間がかかった。普段車に乗らない彼には、道行く自動車の列とマリとが結びつきづらいのだ。

彼がやっと、驚いた顔でマリを見つけて
「ああ。」
と言ったときには、大きく手を振るマリの笑顔は遠ざかって行った。

マリは次の交差点を左に曲がってショッピングモールの駐車場に入った。ショッピングモールでお金を下ろして駅に向かおうと先を急いでいたから、彼とは「それだけ」のつもりだった。

その日の夕方に帰宅して会うと、
「あの角でしばらく待っていたんだよ。」
と彼が言った。お金を下ろさずに駅に向かっていれば、あるいは彼に会っていたかもしれなかった。マリは彼を待たせたことを少し申し訳なく思った。

彼の口調は一つもマリを責める調子ではなく、また会ってすぐにそう言ったのでもなく、しばらくしゃべっていたあとに「そういえばさっき」という形でついでに話したというふうであった。

彼との日々の中で、自宅から離れた場所で彼とばったり出くわしたというのは、このとき限りであった。そのせいか、今もその道を通る度に彼の姿を思わず探してしまう。
もちろん、いるはずはないのだが、もしかしたらふと姿が見えるときがあるんじゃないかと思って。


2024年5月14日現在。
彼が種を蒔き、大切に育てたクローバーが、
槐の根元のブラックシートの脇から花を咲かせた。


彼と車

彼はあるとき、知り合いの書道家の先生について、
「最近見かけたら、ずいぶんと綺麗な良い車に乗っていた。」
と言ったので、彼は車には乗らないけれど、車に関心がないわけではないんだなと思った。

彼の本棚には一冊だけであったが、古い車の図鑑があった。彼の作品では、未来の宇宙船などをよく描くので、そういうものの参考にしていたと思われる。描き手としての眼差しで、彼は車というものの造形美も鋭く感じ取っていたのではないか。

マリのスモーキーピンクの軽自動車の美醜や好みについては彼は一度も触れなかったし、マリもあえて聞かなかったけれど。

★☆ノンフィクション【知られざるアーティストの記憶】は、覚えている出来事を一個も書き漏らすまいという意気込みで、物語よりも記録を優先して書いておりますが、それにしてもどの流れの中でも拾いきれない、あまりにも些細な取るに足らない出来事の記憶の断片を、思い出したときにぽろりと記してみんとてするなり。

形式にとらわれずに、そのときの感性に従って自由に書いていくシリーズにしようと思います。

★★☆しかしながら、やはりこれは本編に書き入れたい、そしてここになら入れられそう!と思ったら、本編で拾い上げることもあるかもしれません。そのときは、これどっかで読んだ!となるかもしれませんがご了承下さい。

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