【知られざるアーティストの記憶】番外:彼のノートより「君、そのポンチョ、おかあさんのおさがりだろう。」
数年前に家族で高崎市にある「山田かまち美術館」に行ったとき、夭逝した彼の遺した才能ほとばしる絵画とともに、詩文や手紙なども展示されていて、その中にはかまちが思いを寄せていた同級の女の子へのラブレターもあった。それはおそらくその手紙を受け取った女性が遺族を通して美術館に提供したものなのだろうが、なかなかに情熱的で、痛々しいほど思いつめた文章だったように記憶している。
当時高校生くらいだった長男はそれを見て、
「これは自分だったら絶対に嫌だ。」
と言った。つまり、自分が好きな相手に思いを込めて書いた手紙を公表されることは、自分の死後であっても耐えられない、と。
しかしアーティストというものは、個人的な手紙でさえも、その精神性の表現されたものとして鑑賞の対象とされるのである。手紙をどう扱うかは、差出人より、受取人の意思に委ねられるだろうから、受け取った女性が公表をオッケーすれば公表されるのだろうよ、息子よ。もしも私がかまちからのラブレターを受け取った女性だったら、彼女と同じことをしただろうな。
そんなわけで、芸能人のゴシップには
「彼らのプライバシーはどこへ行ったの?」
と顔をしかめる私だけれど、アーティストの書簡や手記などを公表するのは基本的にはオッケーだと判断している。
私が今回ご紹介するのは、差し出されたラブレターではないが、10代の頃の彼が愛する女性と出会ったときの衝撃を綴った言葉を、彼の古いノートから抜粋したいと思う。私はこのノートを彼が亡くなった後に見つけた。彼女と出会ったときの情景は、彼が私に話してくれた通りのことが、このノートに書かれていた。
このページには日付がなく、左隣のページには「昭和50年」と書かれている。昭和50年なら彼は22歳くらいなので、10代で出会ったのならばこの文章は後から回想して書かれたのかもしれない。
ちなみに、彼の書く文字はひょろひょろとしていてとても読みづらく、このノートもほとんどのページが解読に時間を要しそうな文字で書かれている。どうしてこれだけ緻密な絵が描ける人が、もう少し綺麗な文字を書かないのだろうかと首を捻るのであるが、絵を描く人というのは、字を書くことへの労力を端折りがちなものなのでしょうかね。ところが、彼女との出会いを書き記したこのページだけは、ピシッと背筋を伸ばしたような美しく読みやすい文字が並んでいる。やっぱ、やればできるじゃん……。
彼女との出会いの場面が記されたこのページの続きには、以下の言葉が書かれていた。
最後の、「葬式要らぬ。葬式仏教反対。」という反骨精神。
「葬式不要。戒名不要」と書いたメモを自らのデスクに貼っていた私の母を思い出し、苦笑する。