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【知られざるアーティストの記憶】第29話 マリと夫
第5章 入院4クール目
第29話 マリと夫
マリと夫は、傍から見ればごく普通の、比較的仲の良い夫婦だった。結婚して18年経ち、19年目を迎える年月は、あっという間に過ぎ去ったようでもあり、そこにはぎゅっと凝縮された何かが積み重なっているようでもあった。
夫はマリよりも10歳上で、マリが初めて務めた生協で、新人のマリを教育する係の上司としてマリの前に現れたのが出会いであった。歯に衣着せぬ物言いの彼に嫌味を言われて泣かされたこともあったが、マリはこの男の内面が優しいことを見抜いていた。マリが独り立ちし、なんとなくあまり嫌味を言われなくなったなと思ったとき、告白された。マリは心を動かされ、そのとき付き合っていた恋人と別れて、この10歳上の上司と付き合った。そして、その4か月後に結婚した。
二人には、結婚してすぐに1人目の、その3年後に2人目の、そこから9年離れて3人目の息子があった。マリは子育てに命を懸けたわけでもなかったが、不器用ながら手探りで、マリなりの俯瞰した距離から息子たちを愛し、それぞれがよい子に育っていることに概ね満足していた。
マリの夫はマリとは好対照に、とても要領がよくバランス感覚の優れた人であった。感情豊かで心根がよく、正当な善悪基準をセンス良く持ち合わせる夫のことを、マリは頼りにもしていたし、尊敬もしていた。多くの面でマリとは正反対の夫は、子育てをするうえで不器用なマリの足りないところをよく補ったが、半面、夫婦としては気持ちの重なり合う部分が少なかった。
そのため、マリはこの夫婦関係では、寂しい思いをしていた。それは、上記のような器用さの違いに加え、お互いの依存度の違いにも起因していた。夫は極めて精神的に自立した人だったが、それに比べてマリはやや依存的であった。わかってほしい、認めてほしいと願うマリ、上手に妻を甘えさせられない夫。マリは根本は甘えん坊のくせに、甘えるのが上手ではなかった。
夫婦は結婚当初から、いつも同じ原因で大喧嘩を繰り返した。喧嘩となると、感情優位で直感型の夫よりもマリのほうがはるかに弁が立ったので、いつも最後にはマリが勝ち、夫を謝らせた。そんなとき夫は、
「いつもおんなじこと言われちゃうんだけど、性分だから直せないんだよ。」
と言った。
「あなたへの基本感情は憎しみだからね。」
とマリは言った。
「そうか。それじゃしょうがないね。俺はマリのことが好きだし、関係に何の不満もないんだけどなあ。でもマリにだけいつも悲しい思いをさせちゃってるんだなあ。」
喧嘩はしばしば離婚話に及ぶこともあった。「離婚」という言葉を先に出すのは、決まって感情的な夫のほうであった。冷静になると必ず自ら取り下げるのであったが。二人の怒鳴り合いを目の前で見せられてきた長男は、幼いうちは無条件に母の味方をしたが、成長するにつれてどちらの言い分が正しいのかを冷静に見極めるようになり、時には母に意見するようにもなった。長男が大人の仲間入りをする頃、
「合わないんだから離れたほうがいいんじゃない?」
とマリにそっと助言した。
マリは夫のことを愛しているのかわからなかった。しかし、愛していないわけでもなかった。喧嘩をする度、この繰り返しを脱しようとギリギリの模索をしたが、解決の鍵は見つからず、互いの溝はそのままに据え置かれた。夫自身が変われないと言っている。マリも夫を変えることなどできない。マリは自分と感性が正反対の夫と一緒にいるだけでストレスが溜まるのだった。それならば、夫が変われないことを受け入れて、受け流せる自分に変わり、傷つかないですむ関係を作るか、別れるかの二つに一つしかなかった。
マリは前者の模索を選び、それが長く長く続いた。もちろん、夫と共に幸せを感じる瞬間もあったし、困難を乗り越えることも経験してきた。しかし夫を諦めるにつれ、夫にはあまり自分の気持ちを話さなくなり、お互いに傷つかなくてすむ距離を保つようになった。
「でもさ、結婚しているからと言って、何十年も他の人を好きにならないでいるなんて、不可能だし、不自然だよね?人を好きになったりもするのが当たり前の人生じゃない?もし私に好きな人ができたら、あなたに言ったほうがいいの?言わないほうがいいの?」
マリはイクミと出会う前から、そんな会話を夫婦でしていた。夫は、長い結婚生活の中で互いが外で恋をする可能性については同意を示したが、
「実際にそういうことが起きたら、自分がどんな気持ちになるかは今はわからないな」
と言った。それに、夫はマリに比べてはるかに人を好きになる沸点が高い、つまり惚れにくいのだった。
そういう価値観を夫とも共有していたとはいえ、マリは積極的に恋をしようなどとは考えていなかった。しかし、イクミに惹かれていく自分に気がついたとき、自分に芽生えた恋心を否定しないばかりか、丁重に迎え入れ、大切に扱った。とはいえ、マッチングアプリで婚外恋愛を楽しむ友人Nとは違って、マリはイクミを好きになったことで夫に対する罪悪感に大いに苦しんだ。
「他に好きな人ができたらどうする?」
という夫婦間の問いには、未だ答えが出ていなかった。基本感情が憎しみであったとしても、夫との間には信頼関係も構築されていた。言わないでいることはフェアではないように思われた。しかし、マリは夫をむやみに傷つけないことが最善であると判断した。好きな人ができたことは、夫には隠し通すことに決めたのだった。
つづく