佐倉統『科学とはなにか』
『科学とはなにか』という本を手に取ったのはつくばの広い書店だった。
その頃ちょうど大学の授業を通じて「科学と宗教って並列なのかな」というのを感じて、"科学"そのものに興味を持ったからだった。
正直、この本は科学とは何かを簡潔に明示する本ではない。そもそも、科学はこれ!って簡単に定義づけられるほど一筋縄ではない。
でも、本を読む中で引っかかったものはある。
それを紹介して、興味が出たら読者の方も是非手にとって欲しい。
科学技術とは
そもそも「科学技術」という言葉は「科学」と「技術」という2つの言葉でできている。意識したことはなかったがそう言われて見ればそうだ。
そして、本書では
「科学」=自然界の成り立ちを知ること
「技術」=人工物を作ること
を指すと一応定義している。
自然主義の誤謬
「科学的事実は価値に還元できない」
これを「自然主義の誤謬」という。
文面だけではわかりにくいので例を挙げてみよう。
人間はハグをしたり、母乳をあげたりすると、神経伝達物質のオキシトシンというものが発生し、落ち着いた感情がもたらされるという研究結果がある。ここまでが、科学的事実である。
しかし、オキシトシンが出るから「日本人も海外の人と同じようにいっぱいハグすると生活が豊かに!」、「赤ちゃんにはミルクではなく母乳をあげるのが良いことです!」と喧伝するのは誤謬を孕んでいるということである。
オキシトシンが出るという事実と母乳を上げたほうが良いという価値判断の間にはなんの論理も根拠もない。そこにあるのはただの個人の判断である。
ここを見誤ってしまう人が意外と多いのだ。
日本の挨拶の文化の中でハグをするというのは失礼に値するときもあるし、母乳をあげる暇もないお母さんなんてこの世にごまんといる。
ただ単に科学的事実を受け取るのではなく、自分の状況を鑑みた自分なりの価値判断というのが必要なのである。
また、面白いことに「オキシトシン」のような科学的な単語があると人々は無批判にそれを信用してしまう「誘惑幻惑効果」というものがあるらしい。
科学的な横文字、らしい言葉を聞くだけで、私達は喜んでしまう傾向にあり、これが自然主義の誤謬を一層促進してしまう。
科学、科学の用語がありふれているこの時代。
私たちは自分の生活、文脈に即して科学的事実を価値判断する必要があり、科学を利用する人たち(えせ専門家なども含め)にも注意を払わないといけない。
科学について知ること、科学的な態度とはどのようなものなのかを知るのは、現代人が生きていく上で必須の知識なのかもしれない。
人文学はなんのために
自然科学とは事実探求のためのツールである。
しかし、その事実が得られたところで自然主義の誤謬を招いてまい、時として間違った方向に私たちは進んでしまう。
自然主義は何が”善”であるのか私たちに教えてはくれない。
善、すなわち価値判断の基準を作るために人文科学が必要だというのが筆者の考えである。
自然科学=事実探求のツール
人文科学=価値探求のツール
という構図である。
人文科学をこのように位置づけるのは自分にとっても共感できるところである。
今年から社会人になった。東京で一人暮らしをし、自分で生きる為の金を稼ぎ、毎日夜遅くまで働いている。
ただ生きることはできる、ただ今の仕事に不満はあるし、自分もまだ未熟、どう生きるか悩みに悩んでいる。
そういう時に哲学書であったり、思想系の本、芸術論、歴史書などを読み漁りたくなる。そうしないと、自分の中に渦巻く不安が、牙を向ける矛先を見失うからだ。
自然科学についての本なのに、最後は人文科学についても再考することになってしまった。
興味がある方は是非一度読んで欲しい。
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