1960年代の青春風景
○安保闘争と岸上大作
1952年4月、サンフランシスコ講和条約とともに日米安全保障条約が発効した。この時の条約は、アメリカが日本に軍隊を駐留させる権利を確保しながら、日本の安全に対する義務は負わない、という片務的な内容であった。1957年に首相となった岸信介は、これを双務的な条約に改定しようとアメリカと交渉を行った。
しかし、この安保改定をめぐっては国民の間に大きな反対運動が巻き起こった。国会周辺には連日のように10万~30万人のデモ隊が押しかけ、「安保反対」「岸を倒せ」のシュプレヒコールがこだました。なぜこれほどに盛り上がったのか。終戦から15年、人々にはかつての戦争の記憶がまだ生々しく残っており、日本が再び戦争に巻き込まれるのではないかという危惧が強かったからである。
反対運動を最先端で闘ったのが全学連の学生たちであった。1960年6月15日、安保改定に反対する全学連のデモ隊は国会議事堂の構内に突入し、警官隊と激しく衝突した。このとき、東大生の樺美智子が死亡するという悲劇が起きた。そのデモ隊の中に、国学院大学の学生・岸上大作もいた。彼は、警官隊の警棒によって後頭部を打たれ、頭部を二針縫う傷を負った。その体験を彼は短歌に詠んでいる。
血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする
血とは、警棒に打たれた頭から流れ出る血。雨とは、六月という梅雨の季節の雨。その血と雨にワイシャツが濡れている。だが、そんな自分を助けてくれる人は誰もいない。ひとりぼっちの孤独の中で、ひそかに想う女性への愛が美しく強められていく。20才の青年の屈折した心情を抒情豊かに表現した名歌である。
ここに描かれた女性と、岸上は何度かデートをしたことがあるらしい。しかし、彼の想いは通じずに、やがて女性から拒絶されてしまう。失恋の痛手は彼を苦しめた。参加した安保闘争が敗北に終わってしまった無念もあっただろう。彼は1960年12月、首をつって自死する。
死の直前に書き残した『ぼくのためのノート』という絶筆がある。そこには、こう書かれている。「今度の自殺も全くぼくの個人的な理由によって、ぼくの恋と革命のためにするものです」「これは、一人の男の失恋自殺です。それ以外の何者でもない」。彼は日頃から、友人に自殺をほのめかしていたらしい。友人の印象では、かなり独りよがりで強引な性格の人間であったようだ。
遺作となった一首。
縊られて咽頭せまき明日ながらしめやかに夜をわたり歌わく
歌人としての可能性を秘めながらの、惜しまれる死であった。
学生運動と短歌との結びつきで言えば、道浦母都子の『無援の抒情』を忘れるわけにはいかない。1960年代後半の大学紛争時代の青春を象徴する歌集である。
道浦は学園闘争や政治闘争に積極的に参加し、逮捕され独房に入れられた経験を持つ。
ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いにゆく
「黙秘します」くり返すのみに更けていく部屋に小さく電灯点る
君のこと想いて過ぎし独房のひと日をわれの青春とする
明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし
いずれも青春の純粋な抒情を歌った名作である。岸上大作とは異なった、大学紛争という時代の一つの真摯な姿がここにある。道浦と同年代の私には、その心情がよくわかる。
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