囲碁史記 第48回 本因坊丈和と井上幻庵因碩 天保の内訌
悪敵手、丈和と因碩
井上幻庵因碩についての詳細な研究は別の回に譲るとして、ここでは本因坊丈和のライバルの一人として話を進める。
寛政十年(一七九八)の生まれで、六歳のとき井上家の外家である服部因淑に入門、文化六年(一八〇九)十二歳で初段となり、師の因淑の元の名である因徹を名乗る。翌年服部家の養子となって服部立徹と改名。文政二年(一八一九)に跡目として井上家に入り井上安節を名乗る。同年に五段で御城碁へ初出仕、本因坊元丈に先二の二子局でかろうじて一目勝ちしているが、この碁は元丈一生の出来栄えと言われている。文政七年に九世井上因砂因碩が隠居して家督を継承、十世井上因碩となり六段に昇段する。
本因坊丈和とはライバルとして知られているが、その関係性から二人は「好敵手」ではなく「悪敵手」と言われている。丈和は因碩の十一歳年長であり、対戦は因碩十五歳の時の先二の手合から始まり、先相先まで七〇局、因碩の三十五勝二十八敗三持碁四打ち掛けであった。
天保の内訌
天保二年(一八三一)に本因坊丈和は名人碁所に就任する。しかし、これは様々な駆け引きや策謀の末で行われたもので、一連の騒動は「天保の内訌」と称されている。内訌とはうちわもめのことである。
それでは経緯を見ていこう。
背景
文政十一年(一八二八)正月、本因坊丈和は八段に昇段する。七段になったのは一年前であり、早すぎるのではないかという声が無いわけではなかったが、実力からみて当然と思われていたためか他の三家からの表立った反対の声は上がらなかった。しかし、同年二月に井上因碩も八段昇段を遂げるのである。こちらは七段になってからまだ四ヶ月しか経っておらず、当初、因碩の昇段に賛成する者はいなかった。
『坐隠談叢』にはこの辺りの流れが詳細に記されている。
まず井上家の外家である服部因淑が本因坊家と安井家の両方を訪ねて因碩の八段昇段を願出る。丈和は曖昧な返事をし、真面目な性格の安井仙知も、因碩が七段に昇段してから一度も手合わせをしていないことから、何局か打ってそれからでも遅くないと断った。そのため、勝負碁を打とうという話になっていく。因碩としては、望むのは名人碁所であり、少しでも早く八段に昇っておかなければならないという思いがあった。因碩はこの頃力をつけてきており、勝負碁になれば丈和であろうと仙知であろうと負けないという自信もあった。
ここで動いたのは林元美である。もとは本因坊門下であった元美は、丈和へ因碩の八段より先に名人碁所の願書を提出するよう勧める。そして丈和は元美を添願人として寺社奉行に名人碁所への就任願いを提出、事が成就したら元美を八段に昇段させるという約束までしていた。
争碁をめぐる駆引き
丈和の名人碁所への就任願い提出に慌てたのが井上家である。名人は当時では九段であり、八段の者しか望めない。このときの八段は丈和と仙知であり、因碩は七段でしかない。そこで、因碩自身が安井仙知を訪ね、丈和の名人碁所に反対しようと働きかけていく。
まず因碩は先日の服部因淑の非礼を詫び、勝負をすることなどは考えてもいないと告げると共に、丈和と戦えるのは仙知しかいないと言った。古来より名人碁所は、技量だけでなく人格も卓越した者が皆から推されて就くべき地位で、なりたい者が力だけでなってはならないというのが仙知の考えであった。そのため仙知も本因坊元丈というライバルであり親友とも呼べる人物と、お互いに名人の実力がありながら拮抗した力であったが故に共に名人を望まなかった。
因碩が言うには、丈和が出願した以上、争碁でもってこれを迎えなければならない。しかし、このとき仙知は五十四歳であり、十番、二十番と続くかもしれない争碁が戦えるだろうか。仙知もそれは感じていたことである。ここで因碩は丈和へ異議を申し立てるために自分を八段にしてほしい。そうすれば自分が丈和を争碁で倒してみせると訴えた。仙知はこれを信じ、因碩の添願人となった。これには本因坊家、林家ともに異議も言えず因碩は八段へと昇段している。
そして家元四家の当主と服部因淑の五名は安井仙知宅に集まって丈和の名人碁所就位出願についての会議をすることとなる。
丈和は四家のうち一家でも反対があれば勝負碁によって決着をつけることに反対はしなかった。そこで仙知は異議を唱えた因碩と丈和の勝負碁をと持ち出した。ところが因碩は丈和の名人碁所就位に異議など無いとし、因淑も異議があるのなら仙知が丈和と勝負碁を打てばいいと発言する。ここにきて仙知は井上一門に謀られたことに気付く。井上家としては因碩が八段になることが当面の目的であり、その上を狙うためには丈和と仙知を連破しなくてはならないため、ここで丈和と仙知を争わせて漁夫の利を狙おうと考えていたのだ。仙知はこれに激しく怒り、直ちに争碁願いを寺社奉行に提出、二月下旬に許可が下り、名人碁所の座は丈和と仙知の勝負碁によって決めることになった。
しかし仙知が病気で寝込んでしまった。それもかなり重病のようで、丈和との争碁が四月になっても始まらなかった。
井上家はこれに危機感を抱いた。このままでは戦わず仙知の負けとされ丈和の名人度所が決まってしまうかもしれない。そこで因碩は、病気の仙知に代わって自分が丈和と勝負碁をしたいと願出ている。
ところがこの頃、寺社奉行所はめまぐるしく担当の奉行が変わって混乱していた。少し前に堀大和守が退任し、一時的にもう一人の寺社奉行である松平伊豆守光年が碁方の差配を兼任、そして後任の土屋相模守彦直へ再び交代したばかりであった。そのため名人碁所をめぐる争碁の件も棚上げされた格好になっていた。
そして話が進まないことで本因坊家・林家陣営が動いた。丈和が因碩を訪ね次のような内容を提示している。
一、因碩は過去の行きがかりを捨て、丈和の名人碁所就位に同意し添願人になる。
二、丈和は名人在位六年でその座を因碩に譲る。交替の際、井上家は本因坊家に金二百両を贈る。
三、二項に反しないように双方は実子を人質として相手の養子にする。
付則、丈和と因碩の芸、技量はともに甲乙つけがたいものであることを両者が確認する。
この提案を受け入れた因碩は争碁願いを取り下げ、丈和の名人碁所就位に同意する口上書を寺社奉行へ提出する。日付は五月九日である。
丈和も改めて碁所就位願いを寺社奉行に提出した。添願人は因碩である。
一ヶ月後、家元四家の当主が寺社奉行に呼ばれ、土屋相模守から丈和の碁所願いと因碩の合意の口上書の件が伝えられる。このとき集まっていたのは本因坊丈和、井上因碩、林元美、病気の安井仙知に代わり跡目の安井俊哲の四人である。異存が無ければ丈和に名人碁所を申し渡し、異議があれば争碁をということであった。ここまでくれば異議は無いものと思われたが、因碩はこの時、口上書を撤回すると言いだし、丈和の名人碁所に異議を申し立てている。
因碩としては、口上書を提出してから丈和に騙されたのではという不安もあり、安易に妥協せず勝負師として決着をつけようと決意したのである。これに対して丈和は、奉行に提出された口上書は反故にできるものはないと争碁を断っている。
後日、土屋相模守は病気療養中の安井仙知を呼び出し意見を求めた。仙知は勝負させるべきと答え、寺社奉行もそのように判断して両者へその旨が伝えられる。丈和は落胆したことだろう。
ところが、天保二年(一八三一)三月五日、突然丈和の名人碁所就位が発表されるのである。
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