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囲碁史記 第121回 中央棋院設立と分裂

 前回も述べたが、大正十一年十二月に革新的な改革を提唱する裨聖会が設立され、方円社では囲碁界統一に積極的な理事の鈴木為次郎や瀬越憲作がいなくなり日本囲碁協会設立計画は活動停止を余儀なくされる。
 その反面、方円社では重鎮が抜けたショックが大きく、坊社両派が急速に歩み寄ることとなり、東京囲碁界の仮統一組織とも言える中央棋院が設立される事となる。

中央棋院設立の経緯

 方円社の丸ビル移転計画に奔走していた広瀬社長は、疲労や、雁金、鈴木、瀬越の三人が抜けたショックのためか病に倒れてしまう。
 この時役員の中で、広瀬により無理やり引退へ追い込まれた前社長で顧問の中川亀三郎(千治)は静観の姿勢をとり、副社長格の岩佐銈は本意ではなかったとしても一度は裨聖会会員に名を連ねたため身動き出来なかった。
 ここで動いたのが広瀬の弟子で理事の加藤信である。方円社には移転のため集めた資金一万五千円があり、加藤は岩佐や顧問格の大縄久雄と協議の上、密かに本因坊秀哉を訪ね合流を打診している。
 加藤の提案は、これまでの行きがかり上、方円社は一旦丸ビルに移転するが、棋界の統一事業が進めば、いずれ坊門と方円社は合流しなければならないのだから、この際合流してしまおうというものであった。そして、秀哉が総帥に就任して丸ビル移転の指揮をとり、免状その他についても秀哉の意見に従うつもりであると告げている。
 秀哉としても、日本囲碁協会設立を巡り、ある程度合流について話し合いが進んでいた状態でもあり、裨聖会の動きに不満を抱いていたことと、最大の問題である資金についてもひとまず解決していることから、合流について異論はなく、これまで対立してきたことが嘘のように、あっけなく坊社の合流が決定してしまう。そして、新組織の名称は「中央棋院」と決まる。
 なお、中央棋院が設立されたのは大正十二年一月であり、裨聖会設立から二ヶ月ほどで、あまりの急展開に一月発行の方円社の機関誌「囲棋新報」には、裨聖会や中央棋院について何も触れられておらず、方円社の丸ビル移転についてのみ社告が掲載された。しかも、社告には理事として雁金、鈴木、瀬越も名を連ねていた。

発会

現在の丸ビル

 大正十二年一月十六日、方円社は東京駅前の丸ビル七階に移転し中央棋院の看板が掲げられた。発会式が行われたのは二十一日である。
 丸ビルの新会館は日本間が一室、洋間が一室、茶番、下足番の設備も新しいと記録されている。
 新会館開設にかかった費用は敷金三千円、設備及び雑費三千円、移転費五百円、家賃七百円の計七千二百円とされ、方円社が集めた一万五千円の約半分が支出されている。
 中央棋院では、方円社時代には無かった教授料の日当が支払われることになった。初段三円、二段五円、三段八円、四段 十円、五段十円、六段二十円である。
 一方、収入については、会費は教室会員が一ヵ月十五円、一年七十円、臨時教授料は二円、後は寄付金で賄われることとなる。ただ、収支バランスは綿密に練られたものではなく、いわゆるドンブリ勘定、矢野晃南もそのことを危惧していた。
 このままでは設立したばかりの中央棋院はいずれ行き詰るであろうと危機感を抱いていたのが、ほかならぬ本因坊秀哉と加藤信である。
 この頃にはスポンサーの大縄久雄も財政的余裕がなくなってきたらしく、秀哉は新たな賛助会員獲得のため、晃南と共に大倉財閥の大倉喜七郎を訪ね、彼が経営する帝国ホテルを訪れた。囲碁の愛好家である喜七郎は、この年、父の喜八郎が八十八歳の米寿を迎えたのを機に引退し、家督を相続することが決まっていた。大倉に新たなスポンサーへなってもらおうと考えていたのだ。これが縁で、大倉は後に日本棋院設立に大きく関わっていくことになる。

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