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囲碁史記 第5回 本因坊算砂と徳川家康



徳川家康

算砂と家康

 本因坊算砂と徳川家康の関りについては信長や秀吉と違い、囲碁界の史料だけではなく徳川家の史料にも記されている。
 家康の囲碁の記述が初めて見られるのは家康の娘婿、奥平信昌の子で姫路藩主の松平忠明が編纂したと言われる史書『当代記』の天正十五年閏十一月十三日の記述である。前年には、家康と秀吉が大阪城で会見し、この年は秀吉が九州を平定、聚楽第が完成し、北野大茶会が催されている。
 さて、家康と囲碁の記述である。
「碁打ちの本因坊新城江下、亭主九八郎信昌、此夏於京都為碁の弟子の間如此、則令同心駿河江被下、家康公囲碁数寄給間、日夜有碁」
 本因坊(算砂)が新城へ下ってきた。(奥平)九八郎信昌がこの夏、京都において算砂の弟子になったからである、両者は駿河へ赴き、家康公は囲碁を好まれ日夜打たれた。

 日次記録の一級資料ではないが、家康の囲碁記事の初出と思われる。三河の国人奥平貞昌は、長篠の戦で長篠城を武田勢から死守した功績により、信長から名前に「信」の一字を与えられ「信昌」と改名。また家康の娘・亀姫を娶って、荒廃した長篠城に代わる新城城の築城を許されているので、充分あり得る逸話ではあるが、天正十五年という年代に疑問がある。すなわち、「天正十五年閏十一月」という暦日には間違いがある。
 この前後の閏月は、天正十三年(八月)と十六年(五月)で、当年には閏月は無かった。なお、十一月が閏月に当たるのは、下って慶長六年(一六〇一)であり、奥平が長篠の戦功により新城に築城したのは天正四年で、天正十八年には上州宮崎へ移っている。したがって、天正十五年には確かに奥平は新城にいたが、一方で家康が駿府城を築いて浜松から移ってくるのは天正十七年で年代が合わない。年代に疑問を残しつつ、ここにあげておく。
 日付のことはさておき、この記述により家康が囲碁に熱中していたことが窺えるが、算砂が駿河に逗留している間に手ほどきを受けたものと思っていいだろう。
 ただ、信昌は天正四年の秋に新城の築城完成披露に算砂を招いていたことが判明している。このとき家康も招かれているはずなので、家康と算砂との接点はこの頃まで遡ることも可能であろう。
 
 対局にかかわるエピソードにも事欠かない。
 『武辺雑話』の記述である。
 あるとき、浅野長政と対局していた権現様(家康)は形勢芳しからず、かなり機嫌を損じている様子。そこで、長政の末子である采女長則が本因坊(算砂)に迎えを出して観戦させた。
 権現様は本因坊を見つけると、手招きしてこういった。「わしらの碁はどうじゃ。この石をハネたらどうじゃ。それよりほかに手はなかろう」と。本因坊は答えた。「おハネなさるよりありません」
 そこで、権現様はハネを打って、その碁を勝ちご機嫌がなおった。一方、長政は大いに怒り、本因坊を次の間へ呼び出し脇差に手をかけ「へんなところへその方がしゃしゃり出て、わしは碁を負けた。重ねて助言しようものなら斬って捨てるぞ」と詰め寄った。
 対局に口出しすることは許されないということを語るエピソードである。
 このときの反省を生かしたかはともかく他にもこんなエピソードもある。
 別の日、屋敷の庭前に毛氈を敷き、家康、長政はその上で碁を囲んでいた。立会いの算砂は「日が当たり、まぶしいですから」と断って日除け傘をさした。その傘には、あらかじめ小さな穴が空けられており、家康が石を打つべきところへ穴からの日差しを示した。家康は算砂の意図を悟り、そのとおりに打って勝つことができた。長政は不興千万に思い悔しがったが、家康は算砂に「お前は頭が良い」といって誉めたという。
 長政が悔しがれば悔しがるほど、家康はカサにかかって追いつめた。長政が失着を重ねるたびに「待った」を許してやり、長政が投げようとすると、「こまかい、こまかい」といって投了を認めない。最後まで打って、結局五十目以上の大差で勝つこともあった。
 家康は算砂をはじめ、碁打ち・将棋指しに俸禄を支給するようになった。これにより碁打ち・将棋指しは江戸時代を通して庇護されるようになる。大名に召抱えられる者も多かった。

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