囲碁史記 第66回 幕末の囲碁界
秀和の旅行
嘉永六年(一八五三)にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀へ来航する。翌七年にはプチャーチン提督のロシア軍艦も来航して、日米和親条約、日露和親条約が相次いで締結される。囲碁とは直接関係ないがプチャーチンとの交渉にあたったのは本因坊元丈の著書『古碁枢機』の序文を書いた筒井政憲である。
当時国内世論は攘夷、開港の両論に分かれ、激動の時代が近づきつつあった。囲碁界ではこの頃は幻庵因碩が中国渡航を企てた時期である。
安政二年(一八五五)十月二日、大地震が関東を襲う。安政の大地震である。被害が甚だしかったため、この年の御城碁は中止となる。翌三年には、アメリカ総領事ハリスが伊豆下田に着任したほか、ロシア使節が下田に来航するなど、内外の情勢があわただしくなっている。
この頃秀和は弟子の村瀬弥吉(秀甫)や富田秀六を伴い越後へ出かけるなど何回か江戸を離れている。安政二年五月から九月まで村瀬弥吉は関西にいたことが遺された棋譜から判明している。弥吉は中川順節、冨田秀六、中村正平などと対局を重ね、九月十二日には京都三本木の大和屋で秀和と対局している。少なくとも秀和は九月には京都に滞在していたことになる。
秀和の跡目秀策が郷里の父親に宛てた手紙に「春に先生(秀和)は長崎見物に行く予定だったが取りやめになった」という記述がある。しかし、加藤隆和の手紙によると秀和は長崎へ行っていたようだ。そうすると、このときの京都は往復の途中であったのだろうか。
翌安政三年には秀和は越後へ旅している。このときは弟子二人を連れていた。記録によると秀和は越後に二度来ているが、もう一度の時期は不明である。秀和の師丈和も越後へ旅しているが、もしかしたらそのときに随行していたのかもしれない。このときの記録に稽古料は一番二朱だったとある。秀和はこのとき大安寺の坂口津右衛門方に暫く逗留したと記録されているが、この大安寺の坂口は、作家の坂口安吾の実家で津右衛門は安吾の曽祖父にあたる。文人囲碁会に参加するなど囲碁好きで知られた安吾だが、囲碁が身近にある環境だったのかもしれない。
秀和一行は、越後入り前に信州を通過したことが須坂の田中家に所蔵されている手紙のやり取りで分かっている。跡目秀策が秀和が上州へ行った際、田中家へ寄って庭を拝見するように勧めたと手紙に書いているので、実際そのような行程になったのだろう。秀和は越後から江戸へ帰る前に高田まで行っている。遠回りのコースであったが、その理由は太田雄蔵の死にあったのではないだろうか。旅に出る前に雄蔵の訃報に接し、その地を訪ねてみたかったのではと思われる。秀和は雄蔵と実に多くの棋譜を遺しているライバルであった。
安政三年の信州であるが、五月に村瀬弥吉と関山仙太夫の十番碁が行われている。このときの一局は五段の弥吉が黒番で対局している。さすがの仙太夫も七十三歳であり、弥吉の八勝一敗一ジゴであった。対局場は松代の万屋である。
秀和の碁所願
名人碁所願の提出
安政六年(一八五九)夏、井上幻庵因碩は芝新銭座の自邸で六十二歳の生涯を閉じている。同年十月に秀和は名人碁所願を寺社奉行に提出した。秀和も四十歳になっており、実力、品格ともふさわしいことは誰もが認めるところであった。ここまで待ったのは幻庵因碩への遠慮もあったためであろうか。ここまでくれば誰も異議を唱える者はいないと思われたが、これに井上家が反対した。幻庵と秀和の因縁があったためと思われる。
このときの井上家は十三世松本錦四郎因碩である。これに安井門下の阪口仙得が後押しをし、争碁になったら自分が代わって打ってもよいと思っていたという。しかし因碩は政界工作によって秀和の名人碁所阻止に動いている。
十三世井上松本因碩
まず、十三世井上因碩である松本錦四郎について述べておく。総州葛飾郡に生まれ、幼時から碁を学んでいる。旗本太田運八郎の近習となり、十七、八歳の頃、太田が山田奉行として赴任していた山田へ遊歴中の本因坊秀和が立ち寄り紹介される。太田運八郎は江戸の屋敷たびたび碁会を開催していて赴任先に秀和が表敬訪問したのだろう。このとき、錦四郎は三子で勝利し実力を認められている。その後、江戸に出ると旧主である久世大和守広周の紹介で林家の門人となった。
嘉永三年(一八五〇)に十二世井上節山因碩が変事により突然退隠し、その際に後継が予定されていた服部正徹が遊歴中であったことから、老中久世広周の推挙により錦四郎が井上家を継ぐこととなる。同年に四段で御城碁にも初出仕し、本因坊秀和に先番二目負けとなっている。
名人碁所就位の断念
そんな因碩が久世大和守にすがり、秀和の碁所願を阻んで欲しいと働きかけた。老中で元寺社奉行でもある久世大和守は囲碁界への影響力が非常に大きかった。これが成功し、翌年春には「碁所願を却下する」という裁定が下されている。当然、秀和は憤り、因碩でも仙得でも良いから争碁を打つと申し出るが、秋まで待たされ「内外多忙、しばらく時節を待つべし」という沙汰があった。この頃は幕末の混乱期で時代も悪かったのである。
ここで文久元年(一八六一)の御城碁で秀和は因碩と対局することになる。これまで負けたことのない相手で、実力的にも負けるとは思えない相手である。しかし、この時に因碩が一世一代の傑作と言われる中盤以降の打ち回しで先番一目勝ちを収める。これにより因碩に負けるようでは秀和の碁所も難しいという世論が定着してしまい、結局この一局によって秀和は名人碁所就位を断念することになる。この因碩の碁は、「幻庵乗り移りの一局」と呼ばれ、秀和の跡目秀策は、師の技ならば片手打ちにても勝つべき相手と述べるほど悔しがったという。
元治元年(一八六四)に秀和は村瀬秀甫を七段へ進めようとしたが、ここでも因碩がこれに異議を唱え争碁が打たれている。この時は秀甫が三連勝して昇段を果たしている。
この安政六年の秀和の碁所願についてはこれまでにも知られていたことだが、以前も紹介した通り、平成三年に囲碁史研究家中田敬三氏が発見された秀和の手紙により、嘉永四年にも碁所願が提出されていたことが判明している。
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