囲碁史記 第130回 呉清源の来日
囲碁を始めるきっかけ
昭和三年、一人の天才少年が中国より来日する。後に木谷実とともに「新布石」を創始し、「昭和の棋聖」と称される呉清源である。今回は呉清源来日の経緯について紹介していく。
呉清源は一九一四年、日本で言えば大正三年に中国福建省で生まれる。清源は号であり、本名は泉という。六人兄弟で、二人の兄と三人の妹がいた。
呉家はもともと福州で代々官職を務め、「書香一門」と称された名家であったが、資産家の祖父が無くなり、さらに辛亥革命で清朝が滅ぶと没落していった。
父の呉毅は一九〇〇年に福建高等学堂を卒業し、清朝および中華民国の高官・張元奇の長女・舒文と結婚する。呉毅十七歳、舒文二十歳の時である。張元奇と呉毅の父は親交が深かったと言われている。その後、長男の呉浣、次男の呉炎が生まれている。
一九一三年頃に呉毅は日本へ留学している。留学中に囲碁に興味を持ち、方円社へ通い初段に二子ほどの腕前となったと言われている。帰国時に「新桃花泉」や「本因坊道策」など、多くの棋書を持ち帰っている。
帰国後に呉泉が生まれる。名前の由来は占いにより「彼の命には水あり」と出たことによるものと言われている。
呉泉が生まれて数ヶ月後に一家は北京に引っ越し、呉毅は義父のつてで平政院(行政訴訟を司る役所)の事務員となる。しかし政権争いに巻き込まれ、融通が利かず賄賂などを贈る性格でもなかったため、出世は見込めなかったという。
呉泉は五歳から父に四書五経を学んでいる。ただ、二人の兄は厳しく教えられたものの、呉毅は政治の混乱により古い学問を学んでも意味がないと考えるようになり、呉泉にはそれほど厳しく教えることはなかったという。代わりに呉泉は、七歳のときに囲碁を教わっている。
九歳の時には父と互先となるが、父は何度負けても白石を放さなかったといい、数年後には近隣に敵うものがいなくなり神童と呼ばれた呉泉は、一九二三年(大正十二年)に父に連れられ、北京の「海豊軒」という店を訪れる。この店には顧水如や汪雲峰など、当時の中国の一流棋士が集まっていて、呉泉は汪雲峰に五子置いて圧勝し、その力を認められる。
段祺瑞との出会い
一九二四年に呉毅は結核により三十三歳で亡くなる。
この年、中華民国では大きな変化があった。国内で勃発した第二次奉直戦争の最中に、北京政変(首都革命)と呼ばれるクーデターが発生し、政権を去っていた、軍人で政治家の段祺瑞が中華民国執政に就任したのだ。
段祺瑞は囲碁の愛好家で、一九一八年には方円社社長・広瀬平治郎と岩本薫を北京に招き、翌年には本因坊秀哉を招いている。岩本薫は回顧録で、当時大総統であった段祺瑞を朝早く訪ねると、朝食後、昼頃まで碁を打ち、それから政務のために屋敷を出掛けたと話している。
呉泉は段祺瑞のお抱え碁打ちであった顧水如を通じて面会を申し込む。呉泉の噂は段祺瑞にも達しており、父を亡くして生活の苦しい呉泉のために月百元の学費援助をすることとした。当時の中学校教諭の月給が五十~六十元の時代である。さらに段祺瑞は呉泉に号を贈っている。それが「清源」である。本名の「泉」から、清らかな水が湧き出る水源という意味である。以来、泉は呉清源と名乗ることとなる。
日本人クラブ
一九二六年に再びクーデターが起き段祺瑞が失脚すると、資金援助を断たれた呉清源は、資産家の集まるレストラン「来今雨軒」で碁を打つようになる。店で多くの棋士が集まり碁会が開かれていたが、呉清源は連戦連勝で「碁の天才少年」として、その名が広まっていく。ただ、相変わらず生活は苦しいままで、この時期亡くなった祖母の葬儀も、呉清源と碁を打ったことのある政府の役人の援助により、ようやく出来たという。
見かねた支援者が、北京の東城にある日本人クラブに行くことを勧める。中国では一般的に囲碁は賭け事の対象で棋士の評価は低いが、日本では評価が高く、高額な収入を得る棋士もいたからだ。こうして呉清源は関係者の手配で日本人クラブへ出入りすることとなる。
北京の日本人社会でも、呉清源の名は広まっており、会場には多くの見物客が集まったという。その中の一人、山崎有民という美術商は多少腕に覚えがあったが、呉清源の強さに感服。日本人クラブで囲碁を教える初段の棋士も歯が立たなかったという。
日本のプロとの対局
大正十五年八月、たまたま岩本薫と小杉丁が北京を訪れ、山崎が歓迎の碁会を開催するが、そこで呉清源は小杉に二子、岩本に三子置いて勝っている。岩本は「負けないつもりでやったのだが、とうとう負けてしまった」とつぶやき、山崎に、「このまま中国にいても三段や四段になるだろうが、今のうちに日本へ渡り正しい棋道に努力したら、大した棋士になるだろう」と語っている。
二日後に別会場で再び岩本は呉と対局し、二子で打ち二目勝ちとなったが、呉の力量に感心していたという。
この呉と岩本の対局は評判を呼び、それまで掲載されることのなかった新聞に棋譜が載り、北京に囲碁ブームが訪れたと伝えられている。
岩本との対局の一年後の昭和二年十一月、井上孝平五段が北京を訪れ呉清源と対局している。井上は二子で二局打掛とした後、向先に手合を直したが、三度目も打掛となり、第四局は呉の勝ち、第五局は井上の勝ちとなっている。
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