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囲碁史記 第12回 寺社奉行の設置と碁所


寺社奉行の設置

江戸城跡

 設立間もない徳川幕府は、国の安定統治を最優先課題に取り組み内部機構の確立を進めている。寛永九年(一六三二)に大目付が、寛永十一年には老中と若年寄が、そして寛永十二年には寺社奉行が設けられた。
 幕府では初め、慶長十七年(一六一二)に「黒衣の宰相」の異名を持つ以心崇伝と、幼少の頃に出家し還俗した大名の板倉勝重を社寺に関する職務にあたらせたが、具体的な役職は設置されなかった。三代将軍徳川家光時代の 寛永元年(一六二四)に板倉が亡くなり、その後専任で社寺に関する職務にあたっていた崇伝が寛永十年(一六三三)に死去したため社寺の担当者が不在となり、寛永十二年になって社寺や遠国における訴訟担当の諸職として寺社奉行が創設された。諸職ははじめ将軍直轄であったが、老中制の確立と共に老中の所管となり、四代将軍徳川家綱時代の寛文二年(一六六二)には再び将軍直属に戻っている。定員は四名前後で自邸を役宅とし、月番制で役目についていた。勘定奉行・町奉行と並んで三奉行と称され、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟などについては三奉行や老中で構成される評定所で審議されていた。
 寺社奉行は原則として一万石以上の譜代大名が任命され奏者番を兼任。いわゆる三奉行の一つであるが、主に旗本が就任し老中所轄に過ぎなかった勘定奉行・町奉行とは別格であり、三奉行の中でも筆頭格といわれていた。寺社奉行に任ぜられた者は、その後、大阪城代や京都所司代といった重役に就くこともあり、最終的に老中まで昇り詰めるなどエリートの証でもあった。例外として江戸町奉行の大岡忠相が旗本のまま大名格となり奏者番を兼ねずに勤めたことがあったが、諸大名の反発もあり、後に大岡は大名に取り立てられている。
 社寺領以外にも、関八州以外の複数の知行地にまたがる訴訟を担当。主な任務は全国の社寺や僧職・神職の統制であったが、門前町民や社寺領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄していた。囲碁将棋もその中に含まれている。
 碁将棋については家元の相続手続き、御城碁御城将棋の実施、碁所の選任、碁打ち衆や将棋指し衆の月次、五節句、惣出仕等においての登城や将軍御目見や御暇願といった仕来りの確立、碁将棋に関する調査等の行政事務や訴訟といったことまで碁将棋界に関わるほとんど全てのことが寺社奉行の下に統括されることになった。
 囲碁将棋が寺社奉行の管轄に置かれた時期は将軍直属に戻った寛文二年ではないかという説もあるが、それまでも老中の下で寺社奉行は囲碁将棋を管轄に置いていたとする考えもありよく分かっていない。
 

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