囲碁史記 第115回 「評の評」事件
事件の発端
大正七年、囲碁史に残る事件が発生する。本因坊秀哉による野沢竹朝の破門である。
新聞碁の勝抜戦敗退戦で名をあげ「鬼将軍」の 異名をとった本因坊秀栄門下の野沢竹朝は、大正四年、三十五歳の時に五段へ進み、銀座松本楼で披露会を催する。同年八月、雑誌「虎の巻」誌上に「評の評」を発表するが、これが事件の発端となる。
「虎の巻」は元時事新報の記者、矢野晃南(由次郎)が経営する富の日本社が刊行する囲碁雑誌。矢野が晩年刊行した「棋界秘話」(昭和四年一月、梓書房刊)には掲載が始まった経緯について次のように掲載されている。
これに就ては玆に聊か特筆して置かねばならぬ徑路がある。予は當時囲碁雑誌虎之巻の經營者であった。或時野澤に向つて、
『野澤君、何か、大いに讀者の興味を唆る新趣向はないものかな』
『さうですなァ。評の評はドンナなもんだらう?』
予は礑と膝を打つて、
『評の評――それは至極面白い――ぢやァ早速今日やつて呉れたまへ。來月號から掲載したいから......』
『マア待つて呉れたまへ。未だ調べてないから......併し早速調べて是非來月號に間に合はせるやうにしませう』
『どうかさうして呉れたまへ』
と云ふ約束で、何んでも大正六年の春頃だったと思ふ。
当時の新聞碁の評はポイントを簡単に指摘する程度で、素人ではとても理解できるものではなかったという。そこで「評の評」は、もう少し詳しく解説し、合わせて講評の内容の疑問点にも触れてみようという趣旨で始まったと考えられる。矢野は、名人本因坊秀哉を始め、中川八段、廣瀬七段等の新聞碁評を、さらに野沢五段が慎重に検討し、辛辣な筆鋒により評論を加えるという斬新な企画は、読者が喜び歓迎されると考えていた。
しかし、現在でさえ打碁について後輩が先輩を評価するということは避けられている。確かに囲碁の研究として疑問に思うことを話し合うことは構わないが、後輩の野沢が誌面で一方的に先輩の講評について口を挟むというのは礼儀を失しているといえる。ただ、野沢にしてみれば、自分の師匠は秀栄であり、秀哉は兄弟弟子に過ぎないという思いもあったのかもしれない。
結局、「虎の巻」に「評の評」が掲載されると、秀哉や中川からクレームが入り、矢野は、一回掲載しただけで中止を決断している。
矢野も当初は師や兄弟子の独断的見解に盲従すべきではなく、是々非々の論評をすることがなぜ悪いのかと考えていたが、これにこだわり本因坊家や方円社の協力を絶たれると廃刊に追い込まれてしまうという経営判断から中止に踏み切ったという。
矢野から掲載中止を聞かされた野沢は、『なァに構うもんか。引き続き掲載すればいいぢゃないか』と言っていたが、矢野は野沢が提案していた別の企画を掲載することで納得させている。
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