囲碁史記 第122回 関東大震災と囲碁界
大正十一年末から十二年にかけて、囲碁界は激動の時期を迎える。十一年十一月に裨聖会設立声明が出され、十二年一月に方円社の丸ビル移転、および中央棋院が設立される。そして四月には中央棋院が分裂するなど、目まぐるしく情勢が変わっていった。
そうした中で、九月一日十一時五十八分に関東大震災が発生。死者・行方不明者は推定十万五千人といわれ、明治以降、日本の最大規模の災害は囲碁界にも大きな影響を及ぼしていく。
橋本宇太郎の記録
地震発生時の様子について橋本宇太郎は「風と刻」で詳細に紹介している。
瀬越憲作の内弟子であった橋本は、この年二段に昇段。地震発生時は瀬越に代わり神田の水交社で囲碁を教えるため、東中野の瀬越邸を出て電車で現地へ向かっている途中であった。
座席でうとうととしていた橋本は、突然床にふり落とされ目を覚ます。何が起こったのか理解できず、揺れに身を任せゴロゴロ転がっているしかなかったという。
電車を降りると、そこは万世橋の駅で、ホームに立つと浅草が見えた。
日本初の十二階建てのビル「浅草十二階」がまだ揺れていて、約五分後の揺返しでビルが倒壊していく様子を橋本は目撃している。
橋本は、囲碁関係の被災状況についても生々しく語っている。
「人間とは何とはかない存在か」と考えた時の気持ちは、そっくりそのまま今も鮮明に体中で記憶している。
やがて周囲から黒煙が上がり出した。
とっさに、
「先生方をお見舞いしなければ……」
と思い気がせいたが、電車が動かないから歩くしかない。
神保町から一ツ橋を経て二重橋前の広場に入った。さらに日比谷公園を通りぬけて虎の門に出、小野田先生のお宅につくと、避難の最中だったのでそのお手伝いをした。
小野田先生のお宅を出ると、さらに三宅坂から歩いて麹町区元園六丁目にあった広瀬先生宅にうかがった。火の手が迫っている。
広瀬先生宅で奥さんと門下生の人たちのお手伝いをして荷作りをし、今では、ホテルニューオータニの建っている土手に避難した。
橋本はこの後、土手の上で炊き出しの御飯を食べて、不覚にもそのまま眠ってしまったそうで、翌朝に目を覚まし、約二時間かけて東中野まで歩いて帰るが、家にたどり着くと、一晩中心配して眠っていなかった瀬越先生に火が出るほどしかられたと記している。橋本が温厚な師匠に叱られた唯一の思いでだそうだ。
被災後の中央棋院
震災で最も被害を受けたのは中央棋院であった。丸ビルを追い出され、秀哉が自宅を担保として購入した日本橋区川瀬石町の事務所はほとんど丸焼けとなり、残ったのは借金だけであった。借りた相手は秀哉の客筋である横浜の資産家、上郎新次であったから、厳しい催促は受けなかったにし ても、秀哉の苦悩は想像以上のものがあった。
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