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囲碁史記 第56回 土屋秀和の登場


 本因坊丈和と井上幻庵因碩の名人碁所を巡る争いが一段落して以降、囲碁界の多くの出来事に土屋秀和(後の十四世本因坊秀和)という人物が登場するようになる。時系列的には秀和より前の人物を取り上げたいところだが、まずは秀和が本因坊家跡目となるまでの経緯について触れておかなければならない。

秀和の登場

 秀和は文政三年(一八二〇)現在の伊豆市小下田出身の土屋家に生まれる。幼名は俊平、後に恒太郎と名乗っている。
 小下田の土屋家は甲斐武田氏の重臣・土屋昌恒の末裔と言われ、武田家滅亡後、ここに落ち延びてきたと伝えられている。
 俊平の父、土屋和三郎は三島の生まれで土屋家の分家へ養子に入っている。俊平は幼い頃より父に囲碁を教わるが、九歳の時に父に連れられ三島のお祭りに出かけた際、沼津に住む十二歳の少年と対局して四子で負けてしまう。これに腹を立てた和三郎は、俊平をそのまま江戸へ連れていき、同郷の本因坊丈和に預けて一人で帰ってしまったという。しかし、自宅へ帰った和三郎は家族に激しく非難され、再び江戸へ出向き俊平を連れ戻すが、その帰途、再び沼津で少年と対局したところ、今度は互先で打ち分けた。そして短期間での成長に気を良くした父親は家族を説得して、正式に丈和の門下にしてもらったという。

土屋和三郎の墓(伊豆市小下田)

 入門して二年目の文政十三年に俊平は和三郎と再会している。郷里の小下田村と隣村宇久須村の間では以前から山の秣狩り場の入会権をめぐり紛争が頻発していた。それがこの年訴訟となってしまったため、和三郎は小下田村代表として江戸へ出向いたのだ。本因坊家を訪れ俊平との再会を喜んだ和三郎であったが、その後間もなく急病で亡くなっている。三十八歳であった。死因は明らかではないが訴訟の相手側によって毒殺されたとの説もある。江戸下谷の栄正寺で仮葬儀が営まれ、その後、本葬は小下田の最福寺で行われているが、この時俊平は帰郷しなかった。一日も早く一人前の碁打ちになることが父の恩に報いることだとして修行に専念したのだろう。
 俊平は土屋恒太郎と名を改め、同い年で師匠丈和の長男である戸谷梅太郎と切磋琢磨しながら四段までは同時昇段を果たしている。天保二年、十二歳の時に二人は剃髪し恒太郎は土屋秀和、梅太郎は戸谷道和と名を改める。この年の三月十六日に師匠の本因坊丈和は名人碁所となっている。
 秀和と道和は天保五年、十五歳になるまで毎年昇段を果たし四段までは一緒であったが、天保六年、十六歳のときに秀和のみ五段となっている。道和が眼病を患い治療に専念することになったためだ。その後も秀和は着実に力をつけていき、安井俊哲(後の九世安井算知)や太田雄蔵といった安井門下のライバルと数多く対局している。
 天保十年五月、二十歳になった秀和は七段昇段を果たしている。名人碁所丈和の推挙とはいえ、他の家元からも異議はなかった。しかし、この年の十一月、丈和は名人碁所から降りることとなる。井上因碩や林元美による丈和の引き下ろし工作によるものである。これにより丈和は隠退し、十三世本因坊を先代元丈の子である丈策が相続、秀和はその跡目となった。

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