囲碁史記 第49回 松平家の碁会
名人碁所に就いた本因坊丈和は多忙であった。そうした中で上野車坂下に設けた本因坊道場にて後進の育成にも力を注ぎ、天保五年には先代元丈の実子である宮重丈策の跡目願いが許されている。一方で名人碁所をめぐり密約があったとされる林元美の八段昇段は行われていなかった。
そんな中、囲碁史でも大きな出来事である「松平家の碁会」が行われる。
松平家の碁会については囲碁史・郷土史研究家の大庭信行氏が詳しく研究されているので参考にしながら紹介していく。
松平家の碁会の概要
松平家の碁会については近年いろんな方面から研究がなされているが、まずは概要を記す。
松平家の碁会は天保六年(一八三五)、浜田藩主で老中首座の・松平周防守康任が邸宅で行った碁会である。
対局は、名人碁所の本因坊丈和と赤星因徹。その他に井上因碩-安井俊哲戦、安井仙知(知得)-林柏栄戦、林元美-服部雄節戦、本因坊丈策-坂口虎次郎戦など家元四家の当主、跡目クラスが総出演した御城碁に匹敵する大変豪華なもので、特に丈和と因徹の対局は「吐血の局」と呼ばれる名局として広く知られている。しかし、その豪華な対局の裏では各自の様々な思惑が絡みあっていた。
碁会開催の背景
各家元の思惑
丈和は「天保の内訌」により争碁を打つ事なく天保二年(一八三一)に突然、名人碁所に任命される。
これに対し、丈和が争碁を打つ事無く名人碁所となったことに井上因碩、安井仙知は強い不満を抱き、丈和に協力した林元美も昇段の約束が果たされないことから同様の思いで、家元三家はなんとか丈和を名人碁所の座から引きずり落とそうと考えていたという。しかし、名人碁所は御止碁といって御城碁で対局しなくてもよかったことから、なかなかその機会が訪れなかった。
そうした中、幕閣の実力者である松平周防守が碁会を開くことになる。そこで、各家元には、碁会に丈和を参加させて打ち負かし名人の資格はないと公儀に訴えようという思惑があったのではといわれている。特に井上家と井上因碩にはその思いが強かったであろう。
なお、碁会を取り仕切った浜田藩の国家老・岡田頼母は安井家門人であり、藩の思惑は別としても、碁会開催はそうした家元たちの思いが強く滲んだものだったものといえる。
浜田藩の情勢
浜田藩の松平家は松井松平家と呼ばれている。松井松平家は今川氏や東条吉良氏に仕えた後に徳川家康の家臣となった松井忠次(松平康親)を祖としている。
碁会を開いた松平周防守康任は分家旗本・松平康道の長男で、浜田藩主松平康定に後継者がいなかったため養子となり家督を相続した。
康任は文化・文政期に権勢を振るった老中首座・水野忠成に引き立てられ、文化十四年(一八一七)に囲碁界と関わり深い寺社奉行に就任、大坂城代、京都所司代を経て文政九年(一八二六)に老中に就任。碁会開催の前年、天保五年(一八三四)に水野忠成が亡くなり、後任の老中首座へ就任している。老中首座とは勝手掛老中ともいい、常設された最高職である老中の筆頭として財政を専任していた。ちなみに大老は老中より上に置かれた将軍の補佐役であるが、常設ではなかった。
なお、天保の改革で知られる水野忠邦も同族として水野忠成によって引き立てられているが、出世は康任の後を追うような形で行われている。
松平周防守康任は幕閣の最高権力者へ登り詰めるが、ほどなくしてスキャンダルが勃発し、退任は免れないといわれていた。そのため囲碁界では「松平家の碁会」は周防守の退任にともなう記念行事として企画されたと言われてきた。しかし、近年では老中首座となってから間がなく、退任は確定したものではなかったことから、碁会は老中首座就任記念行事であるという説も提唱されている。
この頃、浜田藩が関わっていたとされるのが、「竹嶋事件」と「仙石騒動」である。
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