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日記や書簡でみる「原爆下の対局」


 第二次世界大戦末期、昭和二十年八月六日に広島市で世界初の実戦による原子爆弾が投下され、約十四万人が亡くなる。
 この日、広島郊外の廿日市では第三期本因坊戦の第二局が行われていて、囲碁界にとっても忘れられない一日となった。
 当時の様子については対局した橋本宇太郎、岩本薫両氏が著書などで詳しく述べているが、その他にも岩本氏の故郷にある益田市歴史民俗資料館に収蔵されている日記「岩本日記」などで当時の詳細な様子が判明している。
 また筆者は以前、岩本薫氏の子孫の方とお会いする機会があり、その際に研究のため、昭和二十年頃の貴重な岩本薫氏に関わる手紙や葉書を何点か譲っていただいた。
 今回は岩本日記や、筆者が所有する一般には知られていない書簡をもとに「原爆下の対局」当時の様子について紹介していく。

本因坊戦の歴史

 本因坊戦の歴史については別の機会に詳しく紹介したいと思うが、まずは第三期開催までの経緯について振り返っていく。

第二十一世本因坊秀哉

 第二十一世本因坊秀哉は、昭和十一年、囲碁界の活性化のため、江戸時代から続く本因坊の名跡を日本棋院へ譲渡して最高の実力者に継承させることを決意する。
 当時、実力名人戦開催を企画していた毎日新聞は、秀哉名人の意向を汲み、勝者が本因坊の名を継承する「本因坊名跡争奪全日本選手権大手合」を創設。これが本因坊戦の始まりである。
 タイトル戦は七段の棋士と、予選を勝ち抜いた五、六段の棋士(一期は四段上位も参加)により本戦を実施。トーナメント戦を四回行い、その総合成績によって優勝者を決めるというものであった。このように複雑な方式となったのは、運だけで優勝者が決まることが無いよう、対局者本来の実力が発揮できるよう工夫した結果である。
 本因坊の在位は二年(後に一年に改定)で、以降本因坊戦は挑戦者決定戦の勝者が現本因坊に挑む形で開催されることとなった。
 第一期は予選が昭和十四年に始まり、八人により本戦が実施されている。大方の予想では木谷実か呉清源の優勝であろうと思われていたが、昭和十六年に関山利一六段が勝利し本因坊利仙の号が贈られる。

第一期本因坊利仙(関山利一)

 第二期の予選は、昭和十六年、第一期本因坊が誕生して間もなくに開始、昭和十八年に橋本宇太郎が勝利し、本因坊昭宇と号する。
 しかし、この第二期本因坊戦は波乱の展開を辿っている。橋本宇太郎は、予選で大阪時代の師匠、久保松勝喜代七段と対局して一度敗退するが、翌月、久保松は四十八歳という若さで帰らぬ人となり、欠員補充という思わぬ形で復活する。
 その後、波に乗って予選、本戦と勝ち進み、ついに本因坊利仙への挑戦権を手に入れる。
 挑戦手合五番勝負もまた波乱の展開となった。昭和十八年五月の第一局は、橋本が先番にて勝利。続く第二局は同年の七月七日から三日間の予定で開催されたが、初日の夜に体調不良を訴えていた関山本因坊は、二日目も改善することがなく、三日目に八十九手を打ったところで入院し、勝負は日本棋院預りとなってしまう。対局の継続は困難と判断した日本棋院は関山本因坊の棄権負けという裁定を下し、橋本宇太郎の勝利が決定した。

第二期本因坊昭宇(橋本宇太郎)

 この結末に納得できない棋士も多く、代理対局の動きもあったという。
 関山本因坊にしてみれば、さぞ無念だったと思うが、一方で橋本本因坊にしても、病人から本因坊位を取り上げたようなもので後味が悪く、また、この年の秋に長女を亡くし、本因坊就位式の日に家では葬式が行われていたといわれ、色々な思いから本因坊戦防衛に意欲を燃やしていたのではないだろうか。

第三期本因坊戦広島開催の経緯

 第三期本因坊戦は、第二期の終了後間もなく予選が始まり、岩本薫七段(当時)が挑戦者に決定する。

岩本薫(後の本因坊薫和)

 岩本は明治三十五年(一九〇二)に島根県益田市で生まれ、大正二年に、後に方円社社長となる広瀬平治郎に入門、大正十五年には六段へ昇段している。
 昭和四年に囲碁界を引退してブラジルに移住するが、二年後に帰国して囲碁界へ復帰、徐々にかつての感覚を取り戻していき、ついに本因坊への挑戦権を獲得している。
 しかし、昭和二十年の五月二十五日に、東京大空襲により溜池の日本棋院が全焼。岩本は、柿ノ木坂の自宅を棋院の仮事務所として提供し復興に向け奔走したが、戦時下でもあり棋院は事実上活動停止であったという。
 この時期、橋本本因坊は宝塚へ疎開し、対局のときだけ東京へ出向いていた。また、橋本本因坊の師匠で相談相手の瀬越憲作も、故郷広島の五日市に疎開中であった。また、実質的主催の毎日新聞は新聞を毎日発行出来ている事が奇跡的であり、正直、囲碁どころではなかった。

瀬越憲作

 そうした中、本因坊戦の灯を消してはならないと、実施に向けて最も奔走していたのが、囲碁界の重鎮である瀬越憲作であった。
 瀬越は、橋本本因坊や岩本薫にしきりに連絡する一方、東京と比べ戦火がそれほど激しく無い広島での開催を提案、日本棋院広島支部の藤井支部長の協力を取り付け、毎日新聞広島支局とも交渉を始めている。
 そして本因坊戦の広島開催が決定し、対局場に選ばれたのが広島市中島本町にあった藤井支部長の別邸である。現在の原爆ドームに近い川べりに位置し、まさに原爆が落ちたその直下にあたる場所であった。
 藤井支部長は、ハワイへ移住し、アロハシャツ販売などで財を成し、帰国後、米や味噌など日本食の食材を輸出する貿易商として活躍した人物である。余談だがアロハシャツは日本の和服がルーツである。明治期に多くの日本人がハワイへ渡りサトウキビ農園などで働いていたが、作業に適したポルトガル人がハワイに持ち込んだ青い格子柄の開襟シャツ「パラカ」を好んで着ていたといわれ、やがて、日本から持ってきた着物をパラカ風に仕立て直して着るようになり、柄の美しさが話題となり広まっていったという。藤井氏はその販売店を買い取り商売を初めている。
 昭和十七年(一九四二)に日本棋院広島支部が設立されると、藤井氏は初代支部長へ就任。橋本本因坊も瀬越憲作を通じてかねてから懇意にしていて、広島へ行った際には藤井邸へ泊めさせていただくこともあったという。
 藤井支部長は邸宅を対局場にすることを快諾するが、これは実は大変なことであった。
 支部長が経営する藤井商事は、広島市内有数の繁華街、中島町本町にあった住友銀行広島支店の旧社屋を購入して事務所とし、その隣りに別邸を構えていた。しかし、対局場として使うには疎開のため運び出していた家具の再搬入や、食糧事情の悪い中で、その準備もしなければならず、物資の確保以外にも、輸送の段取りなど藤井支部長は大変苦労されたようで、対局場の準備は六月初旬にようやく完了している。
 しかし、戦況の悪化により関係者が広島へ集まる事さえ困難な状況であった。

いざ広島へ

橋本本因坊の広島行き

 対局の準備完了後、瀬越は橋本、岩本両氏に広島の五日市にある瀬越邸へ集まるよう連絡している。両者とも瀬越邸に宿泊し、そこから十キロ足らず離れた広島市内の対局場へ通う段取りであった。
 しかし、宝塚から向かった橋本本因坊は無事たどり着いたものの、東京の岩本薫は交通事情の悪化により辿り着くことが出来ず、橋本は、三、四日待った後、再び宝塚へ帰っていく。
 この頃、橋本はとても手合いなどはできそうもないから本因坊戦は見送られるだろうと考えていたが、六月下旬になり再び広島集合の電報が入り、今度こそはと列車に乗った。
 途中、警戒警報や空襲警報が鳴り響く、まさに命がけの旅で、ようやく広島にたどり着いたが、今度も岩本は広島にたどりつくことができなかったという。
 この時、橋本や瀬越は、もしかしたら岩本が広島までたどり着くかもしれないと考え、お酒の好きな岩本のために入手が難しくなった日本酒を山口県まで行って準備していたが、七月四日まで待っても岩本はたどり着くことが出来ず、橋本はあきらめて再び宝塚へと帰っていった。
 そして、次は岩本が広島に到着してから橋本へ連絡する事とし、三度目の正直というのか、岩本が到着したという電報を受け取った橋本は七月十九日に三宮から汽車で移動。途中、しきりに空襲警報が鳴り列車が止まり、挙句の果てに三原駅で降ろされて駅のプラットホームで野宿した後、翌日の頃にようやく瀬越邸に到着。疲れ切った橋本を瀬越は「よう来てくれた」と大変喜び出迎えたという。
こうして、苦難の末に、第三期本因坊戦が開催されることになったが、開催時期がずれ込むなど、様々な要因が重なり、関係者が歴史に残る悲劇に遭遇する事になるとは、この時は知る由もなかった。

日記にみる岩本の広島移動

 ようやく広島の瀬越邸へたどり着いた橋本本因坊は、「岩本さんは二階で碁を並べている」と聞いて、とにかくあいさつしようと二階に上がった。すると岩本薫が碁盤の前に座って古い棋譜を調べているところで、東京から命の危険がある中、長い時間かけて広島に訪れ疲れているはずなのに勉強をする余裕があるとは何て人だと感心したという。そう思った瞬間に、今度の七番勝負は勝てないかもしれないと感じたと後に語っている。
 この時、岩本はどのようにして広島へやってきたのか、岩本薫が残した日記により判明している。
七月十二日
 朝のうちに散髪などを済ませ、雨の中、十一時頃に自宅を出て、記録係を務める三輪芳郎五段と共に十五時半に東京駅を出発。
 名古屋付近で空襲警報が発令される。一宮市で空襲があったとの情報が入り三時間ほど退避する。
 一宮市はこの日、一宮空襲と呼ばれる大規模な空襲を受け、火災は三日三晩続いたと記録されている。七月二十八日の二度目の空襲と合わせて一宮市の約八割にあたる一万四百六十八戸が罹災。岩本は朝の四時頃に一宮市を通過しているが、まだ市内は燃えていたと日記に記している。
 その後、大阪で汽車を乗り換え広島へ向かうが、途中、大阪、神戸、明石、姫路、岡山などすっかり焼土となっていた。
 予定時刻を大幅に遅れて午後十時過ぎに広島駅に到着したが、警戒警報中で真っ暗な中、駅前の宿で一泊している。
七月十四日
 三輪氏と共に中国地方総監府部長の青木重臣氏を訪ね、今後の打ち合わせをする。
 青木氏は、大東亜大臣として瀬越憲作、橋本宇太郎、呉清源を南京に招くなど囲碁界と関わりが深い青木一男氏の弟で、自身も瀬越八段と親しく本因坊戦開催にも理解があったという。
 この日は、迎えに来られた瀬越先生の奥様と一緒に市内から十キロ足らずの五日市にある瀬越邸に向かい宿泊している。
七月十五日
 山口県経由で実家の益田市に帰省する。
七月十七日
 夜に瀬越邸へ戻る。翌日以降、あいさつ回りなどをしながら過ごす。
七月二十日
 九時半頃に橋本本因坊が瀬越邸に到着し、ようやく一同が集結。

 橋本本因坊は一同が瀬越邸に集まった日の事を次のように語っている。
 夕食は賑やかで、岩本さんは、我々が山口で仕入れたお酒をちびりちびりとおいしそうに飲んでおられた。私も嫌いな方ではないからお相伴をしたが、仕入れてから日にちが経っているので、それはほとんど酢になりかけていた。
 食後、瀬越先生が関係者を集め、「橋本君はわたしの弟子だが、わたしは公平無私な立ち合いをやる。ただし、橋本君は今日着いたばかりで、公平を期して三日休もう」といわれ、対局は七月二十四から三日間と決まった。
 もし、岩本七段が延期された先の二回の予定日で、遅れて到着していたら立場は完全に逆転していた訳で、運命とは実に皮肉なものである。

第三期本因坊戦第一局

対局前の岩本七段

 先に到着して余裕のあったはずの岩本薫も、本因坊戦に集中できていたかと言えば、必ずしもそうではなかったようだ。
 後で紹介するが、瀬越邸へ滞在中の岩本宛てに、囲碁棋士の篠原正美から何通か手紙が届いている。篠原氏は当時、岩本氏と共に日本棋院の運営に尽力していた人物である。東京大空襲で日本棋院が全焼した後、自宅を棋院の仮事務所とするなど、復興に向けて奔走していた岩本は、広島滞在中も棋院運営に関わり、対局に集中できる状態ではなかったように思われる。

総監府による中止命令

 挑戦手合の第一局は予定通り七月二十四日から中島町本町にある日本棋院広島支部の藤井支部長の邸宅で行われるが、対局前日には次のような騒動があった。
 記録係を務める三輪のもとへ総監府の青木部長から呼出しがあり、対局を中止するよう言い渡される。青木部長は、当初、本因坊戦の広島開催に賛成していたが、戦況悪化により広島も危険だと判断したという。
 さらに「碁を打ち始めたら、すぐ電話して欲しい。警察としては直ちに中止するよう命令する。そのように心得ていて欲しい」とまで三輪氏に伝えている。
 困った三輪は帰宅後、橋本本因坊に相談。橋本も何度か青木部長を訪ねる内に部長が開催に否定的になっている事を感じていたため、二人で瀬越八段へ相談に行く。
 すると普段は温厚な瀬越も、この時は言葉鋭く、「三輪君!あなたは今後、プロとして身を立ててゆくつもりか。それならば、黙って記録しておればいい。警察に電話する必要はない」と激怒したという。
 幸いにも対局当日、青木部長は緊急の部長会議で東京へ出張していて、第一局は予定通り開催されている。

対局開始

 こうした騒動を経て第三期本因坊戦第一局は開催されたが、青木部長の言ったとおり、対局中、アメリカ軍の艦載機が襲来し市内を機銃掃射が行われている。
 第一局が行われた三日間の岩本の行動を、岩本日記を元に紹介する。
七月二十四日
 岩本は朝六時半に橋本本因坊と共に瀬越邸を出て会場に向かう。
 その途中、空襲があり、その日は一日中敵機が襲来した。
 夕刻に打ち掛けとなり七時半に帰宅。酒をご馳走になり直ちに眠っている。
七月二十五日
 朝五時に起床。六時に橋本本因坊と瀬越邸を出たが、この日も敵機来襲があり一日中騒がしかった。
 夕方打ち掛けとなり七時半に帰宅。この日も酒をご馳走になり直ちに眠った。
七月二十六日
 
六時前に起床、三日目なので大分くたびれた。七時半に藤井邸へ出かける。
 互先の白番で夕方六時半までかかって四目勝ちとなる。大分幸先が好い。
 八時まで藤井邸でご馳走になり九時半過ぎに帰宅。今日は敵機の来襲はなかった。

第一局の終局

 中国地方総監府部長の青木重臣氏による中止命令を無視する形で強行された第三期本因坊戦の第一局は、岩本の四目勝ちで終局する。
 橋本本因坊が残した記録によると、敵機襲来により対局中、会場でも屋根瓦がピンピン割れる音がしていたという。
 羽織袴姿の橋本本因坊と岩本の対局を観戦していた藤井支部長は、
「わたしは幸せ者だ。こういう命賭けの碁をここで打ってもらって、こんなうれしいことはない。空襲で死んでも私は本望だ」と述べていたと記録されている。他の観戦者も同じ気持ちらしく、警報が出ても艦載機がきても誰も逃げ出そうとしなかったという。
 しかし、当の橋本本因坊はこの時の気持ちを次のように語っている。
 「岩本さんは四十過ぎ、私はまだ四十前で、死んでも本望というわけではなく、かといって、羽織袴姿の対局者が真っ先に飛び出すというわけにもいかない」、とうとう三日間、やせ我慢をして、防空壕にも入らず打ち続けて終局したという。

第二局の開催

会場変更

 第一局終了の翌日、あるいは翌々日だと思われるが、記録係を務めた三輪の元へ東京出張から帰ってきた青木部長から呼び出しの連絡が入り、瀬越と橋本本因坊が出向いている。運命の八月六日まで約十日余り前の事である。
 二人は、青木部長はさぞ怒っているだろうと考えていたが、不思議と機嫌悪くなく、「よく打たれましたね。大変だったでしょう」と労をねぎらってくれた。
 もともとご自身も囲碁が強く、囲碁界と親交があった青木部長であるから、対局を強行した心情も理解していたのかもしれない。
 そして、「二局目はあそこで打たないようにして欲しい。対局場はすでに私の方で手配して五日市の津脇勘市さんにお願いしてあります」と二人に伝えた。
 津脇氏は大会関係者の一人で中国石炭の社長。対局場として選ばれたのは瀬越邸から二、三百メートルのところの吉見園にある中国石炭の寮であった。
 世話人たちの間でも、空襲が続き落ち着いて碁を打つことが出来ないので、どこか適当な所へ移してはどうかという話が持ち上がっていたところであり、会場変更という方向へ一気に傾いていったが、一つ大きな問題があった。
 対局場の変更を、誰が藤井支部長に申し入れるかという事である。
 藤井支部長はハワイ移住の経験からアメリカに対してある種のシンパシーを感じておられ、アメリカが広島に爆弾を落とすことはないと考えていた。
 この七番勝負のために、会場提供だけでなく、家財の再搬入や、食材、お酒などの手配など大変苦労しておられ、第一局について青木部長が中止を求めた際も憤慨していたという。
 その藤井氏に、今になって、誰が対局場を変えると言えるだろうか。
 瀬越八段も、「わしゃ、よう言わん」と頭をかかえこんでしまわれ、進んでこの大役を引き受ける者はいなかった。
 そして最終的に、この大役を任されたのが岩本薫であった。
 岩本は有名な早口で、時には聞きとりにくいこともあり、一方的に言うだけ言って、さっと引き上げてしまうという一種の妙技を持っていた。
 「瀬越先生が行かれないなら、年の順からいっても私が行かねばならない。私の早口も時には役に立つんですなあ。仕方がありません。ご機嫌を損じても、腰抜けだといわれても、とにかく頭を下げてくる。それにしてもわたしゃつらい」と言っていたと伝えられる。
 岩本の話を聞いて、藤井氏は最初はかなり立腹していたが、最終的に了承し、七番勝負のために用意していた缶詰などの物資もすべて提供している。

「岩本日記」から見る会場変更の行程

七月二十九日
 岩本は朝に新しい対局の候補地を見学に行き手合い場所として申し分ないことを確認。
七月三十日
 瀬越八段らが会場の事で藤井支部長を訪ねる。
 岩本は同行しておらず、どのような話し合いであったか不明だが、その夜に岩本にも報告されている。
 岩本が藤井支部長にあったのもこの日で、翌八月一日の日記には広島支部が了解、開催日も決まり、本因坊戦がようやく軌道に乗ったと記されている。

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