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囲碁史記 第107回 本因坊秀元


十六世襲名

 十六世・二十世本因坊秀元については、これまで何度か記事の中に登場してきたが、改めてその生涯について紹介させていただく。
 秀元は嘉永元年(一八五四・十一月に安政と改元)に十四世本因坊秀和の三男として生まれる。元の名は土屋百三郎、兄には長男秀悦、次男秀栄がいる。
 百三郎は幼い頃、勝田栄輔五段について碁を学び、慶応二年(一八六六)十三歳の時に入段。明治三年二段、同十二年、二十六歳の時に三段に昇段している。
 文久二年(一八六二)に父秀和の跡目、本因坊秀策がコレラのため亡くなると、秀和は村瀬秀甫を再跡目へと考えていたが、先代丈和の未亡人勢子の反対で断念し、翌年に長男の秀悦を跡目としている。また、秀策が亡くなった同年には、次男の秀栄が林家の養子となり本因坊家を去っている。百三郎はこれら二人の兄に比べて比較的気楽な立場にあったといえる。
 ところが、明治維新後、囲碁界を取り巻く環境は激変し、百三郎の人生は大きく変わっていく。
 明治十一年頃、幕府の支援を失い、屋敷が火災に遭うなど、本因坊家を襲う過酷な状況による心労のためか、当主の本因坊秀悦は精神に異常をきたし隠退を余儀なくされる。百三郎は林家当主となっていた兄の秀栄と協議し、後継を村瀬秀甫へ打診したが、仲介した中川亀三郎の思惑もあり、交渉は不調に終わる。その結果、まだ三段の百三郎が本因坊家を継ぐこととなる。
 明治十二年(一八七九)四月に、秀甫や亀三郎らを中心に研究会「方円社」が設立されると、百三郎は秀悦の代理として参加、後に正式に家督を相続して第十六世本因坊秀元として出席するようになる。
 しかし、当時の秀元は本因坊家の歴史上最も低段の当主であり、そのため、実力重視を謳い家元の権威を認めない方円社にて軽く扱われることも多かったという。そして決定的だったのが、井上松本因碩主催で、秀栄、秀元、そして方円社のメンバーも参加して行われた碁会で、因碩が秀元に「オイ!百さん」と言ってお茶出しなどをさせたといい、これに激怒した秀栄が方円社参加の条件として井上門下の排除を挙げていたのに約束が守られていないことに抗議したという。結局、秀栄は秀元、安井算英と謀り方円社を脱退し、門下の方円社員の段位を剥奪するという行動に出ている。
 当時の家元の関係は、林秀栄と本因坊秀元が兄弟で、安井算英も修行時代に稽古をつけてもらった本因坊家に理解があった一方で、本来長老格として囲碁界をまとめていかなければならない立場の井上松本因碩は、秀和の時代から事あるごとに本因坊家と敵対し孤立している状態であった。そうした中で、秀栄の発言力が一番強く、その行動に秀元や算英は振り回されていったともいえる。秀栄は名門本因坊家に生まれながら、幼くして林家へ養子に出されたためか、物事の価値観は囲碁を中心に考え、特に家元筆頭の本因坊家へのこだわりが強かった。因碩が孤立したのも本因坊家自体より、秀栄が強く和解を拒絶したためと言われる。それだけに本因坊家をないがしろにする方円社の態度にも我慢できなかったのだろう。

隠退

 秀元が家督を継承したのは自ら言いだしたのではなく、兄秀栄が強く薦めたためと言われている。しかし、秀栄のかつての兄弟子で棋界第一人者であった村瀬秀甫を擁し、明治という新しい時代に乗った「方円社」が世間の支持を得て発展していったのに対し、旧来の家元の勢力は衰えていく。そこで秀栄は林家を断絶させ、本因坊家へ戻り、十七世を継承するという思い切った行動に出る。秀元自身も自分の今の実力では本因坊家を盛り立てていくことは難しいと感じていただろうが、当時まだ三十一歳と若く、兄に押し切られる形で引退を決断したのではないだろうか。
 家督を継いだ秀栄は明治十九年(一八八六)に方円社と和解し秀甫へ家督を譲るが、十八世となって間もなくして秀甫が急逝したため、十九世を再襲、そして名人となり、本因坊家は方円社をしのぐ勢いとなっていく。
 一方、家元の座を降りた土屋秀元は、酒を楽しみ悠々自適の生活を送ったといわれ、酒仙、畸人と称されていた。
 秀元は、終生四段で通したと言われている。それも、最初は自ら名乗った訳ではなく、まわりが勝手に「四段、四段」と呼んでいたという。また、秀栄からは「璧玉たるを失はず」「六段の価値がある」と評されていたと伝えられている。

秀元と酒

 秀元は、ともかく酒好きで、物事に執着しない奇人として知られていた。
 時事新報の矢野由次郎は、著書「棋界秘話」の中で、秀栄と酒を飲みながら次のようなはなしをしたと書いている。
 『舎弟秀元の碁は天才的で、機鋒煥發の妙味があるから、人並に勉強さへ すれば、親父くらゐの基になれない事もない。だが、彼は何分にも酒好きで、金さへ掴めば、明日米を買ふ銭があらうが無からうが、一向頓着なく、有るだけ飲み盡さなくちゃァ氣が濟まないと云った質で、研究をするでもなければ、向上しょうと云ふ意氣があるでもなく、悟として四段に甘んじてゐるのだから、何んとも仕方がない。』
 この話は、それに比べて自分(秀栄)は、秀甫のような天賦の才がある訳でもなく、数年間勉強してようやく今日の腕前に漕ぎつけたと続いている。

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