囲碁史記 第142回 戦後の変革と混乱
総裁・副総裁の退任
明治以降、棋士同士の対立により囲碁界が分裂してきた反省を踏まえ、大正十三年に設立された日本棋院では副総裁の大倉喜七郎を始め、棋士以外の有力者が役員となって経営にあたり、棋士たちは手合いに専念してきた。
しかし、戦況の悪化により昭和二十年の春には大倉副総裁らは本業に専念するため棋院の運営に関わらなくなり、岩本薫らが理事に就任して運営に奔走するようになる。
終戦後、日本棋院を財政的に支えてきた大倉財閥の大倉副総裁は、GHQの政策により大打撃を受けている。
中国、満州、朝鮮で展開していた事業をすべて失っただけでなく、財閥解体指令により財閥は崩壊。爵位廃止により、男爵でもなくなり一市民となった大倉氏は、B級戦犯に指定され公職追放となっている。そのような状態であるから、とても日本棋院副総裁として従来通り運営に関われる訳がなかった。
昭和二十一年(一九四六年)一月十六日、日本棋院は棋士総会を開き、棋士たちが直接経営にたずさわり、運営するしかないと決議する。
初の選挙により、瀬越憲作、加藤信、岩本薫、村島誼紀、長谷川章、鈴木五良、三輪芳郎の七棋士が新理事に就任、牧野総裁と大倉副総裁については引退していただくという意見が大勢を占めていた。
実は、総裁・副総裁の退任については、それまでの話し合いで多く賛同する意見が出ていた。棋院設立の経緯を知る重鎮からしてみれば、大恩人で、日本棋院の父とも言える大倉氏に、とてもそんなことは言えないが、若手棋士からしてみれば、最近は何もしてくれないし、それならば棋院から去ってもらった方が良いという事だったのだろう。
牧野総裁への対応については資料が無いが、大倉副総裁については、関係者の記録により、決議が行われる一ヶ月前には棋院の重鎮である瀬越、岩本、村島の三棋士が邸宅を訪問し、事情を説明して内諾を得ていたという。今後は棋士中心でやって行きたいと伝えた時、大倉氏は「ああ、そうか」と言っていたが、内心はかなりショックを受けていたといわれる。
三月三日、東京築地の藍亭で大倉氏への謝恩碁会が行われ、大倉氏も出席しているが、来会者は僅かに二十六名だったという。
瀬越理事は謝恩碁会にて大倉前副総裁への記念品として大手合優勝者全員が署名している「朝日優勝盤」と厚さ四分と言われた日向産の逸品の碁石を贈呈している。その盤石は、喜多文子が田舎へ疎開させていた棋院唯一の財産ともいえる貴重なものであった。
大倉氏は、一応は盤石を持って会場を出たが、帰宅途中に別の料亭へ盤石を預けて帰ってしまったという。
大倉氏にしてみれば、若手棋士はともかく、散々目をかけてきた瀬越までもが自分を裏切り追い出したことに我慢できなかったといい、その後しばらくの間、日本棋院の話はしたくないと言っていたと伝えられている。
瀬越は後にこの話を聞き、「あの時、どうして、これからは私たちが粉骨砕身してやって行きますが、どうか名誉総裁として今後も棋院に残って下さいと言わなかったのだろう」と後悔する事となる。
数年後に、朝日優勝盤が料亭に預けられている事を知った棋院関係者が、返して貰うために訪問したが、盤は回収できたものの、日本に三組しかないと言われた厚さ四分の日向蛤碁石は紛失していたという。
その後、誤解が解かれ、昭和二十八年に名誉総裁となった大倉は、多くの棋士達から親しまれ、昭和三十七年の秋に開催された大倉先生を囲む棋士の会には、ほとんどの棋士が出席したといわれている。
大倉喜七郎は、その翌年の昭和三十八年に八十歳で亡くなるが、日本棋院では大倉氏の功績を讃え、翌昭和三十九年に囲碁の普及、発展の功労者に贈る大倉喜七郎賞を設立する。また平成十八年には日本棋院囲碁殿堂入りしている。
現在、市ヶ谷の日本棋院会館ロビーには「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家、朝倉文夫が制作した大倉喜七郎と本因坊秀哉の胸像が設置されていて、出入りする棋客たちを見守っている。
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