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囲碁史記 第136回 本因坊戦に向けたルールの整備

 昭和九年に東京日日新聞(毎日新聞)が実力本位制の「名人戦」創設を申し入れ、昭和十四年六月には本因坊秀哉より本因坊家継承の為の選手権についての声明書が発せられる。六月十二日には日本棋院において創定式が開催され、来賓として鳩山一郎、東京日日新聞会長高石眞五郎らが出席している。
 いわゆる本因坊戦の、当時の正式な名称は「本因坊名跡争奪・全日本専門棋士選手権戦大手合」であり、このとき唯一の正式な棋戦、「大手合(日本棋院定式手合)」と同格であるという、関係者の意気込みが感じられる。
 申し入れから実現まで四年という期間を費やしたのは、本因坊の名跡継承問題が絡んでいたためで、継承の可能性がある門人の説得に時間がかかったためである。

日本囲碁選手権戦

 名人戦申入れから本因坊戦が設立されるまでの間、東日はただ手をこまねいていたわけではない。
 昭和九年の三月には本因坊戦の前哨戦ともいえる「日本囲碁選手権戦」を開催している。この大会や、後に開催される名人引退碁を通じて、本因坊戦開催のノウハウが蓄積されていったといえる。
 東日としては、大会で最優秀者を決める「選手権戦」と銘打った以上、対局形式は、参加者全員が互先、コミ出し制にしたかったが、これがプライドの高い七段の棋士の猛反対に遭う。七段と六段が互先で打つなどあってはならないことだというのだ。
 これでは総互先制の公平な選手権戦など出来ないと運営側は苦悩するが、相談を受けた学芸部長の阿部真之助は、「それなら長老どもの言う通りに打たせてみようではないか」と指示する。従来の手合いで、しかもコミなしなら、七段は四段に二子置かせる場合もあり、優勝など出来る訳ないと考えたのである。自分たちの主張がいかに不合理であるか身をもって分からせようとしたのである。
 結局、優勝したのは向井一男四段である。向井四段は三回戦で優勝候補の木谷六段を破り、最終戦で呉六段に勝利して、見事日本棋院の大広間に優勝額が掲げられている。
 この結果を受けて、さすがの七段の長老たちも多少は反省した。
 当時、日本棋院の大手合は四段以上の高段者で構成する甲組と、四段以下の低段者で構成される乙組に分けられていた。四段は乙組の棋士が昇段ポイントに達すれば、一旦、甲組四段に編入されることとなっていた。
 したがって、大手合甲組の四段は高段も同然であるから、先二先の手合ではこちらも苦しく、改善の余地があるという意見が出てきたのである。
 そして、本因坊戦で長老たちが提案してきたのは、総互先など論外だが、まず甲組四段同士を戦わせ、その優勝者と準優勝者は五段格として五段級で打たせる。さらに、その上位二名は六段格として六段戦に参加させ、その成績優秀者であれば、自分達七段と互先で打たせて良いというもので、完ぺきではないが、かなり歩み寄ったものとなった。
 現在では、総互先、先番コミ出し制は常識であるが、そこに至るまでは長い歴史があるのだ。
 段位問題は、これで一応の結着を見たが、もう一つ、コミの問題が残されていた。
 囲碁はゲームの性質上、先手の黒が有利であり、勝率を五分五分にするため、地の計算の段階で与えられるハンデキャップがコミである。
 江戸時代には座興の場で用いられることはあったが、一般的には使用されず、手合割は複数対局の結果で決めていた。黒には黒の、白には白の戦い方があり、高段者は白番の不利な状況を覆して勝つことにプライドを持っていた。
 ただ、「選手権戦」では、一つの対局で勝負を決める必要があり、コミの必要性が議論されるようになったのだ。
 しかし、この日本囲碁選手権戦ではコミなしで打たれている。手合割同様、阿部の采配で長老の意見に従ったもので、阿部の思惑どおり、長老たちもコミの必要性に気が付くこととなる。 

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