囲碁史記 第8回 徳川政権の始まりと囲碁界
江戸幕府成立直前の囲碁界
豊臣政権の時代、碁打ちの有力な後援者は吉田社や神龍院などの寺院や大名たちであった。もちろん豊臣秀吉をはじめとする豊臣家の人々もそうであったが、大名では徳川家康、細川幽斎等があげられる。
豊臣秀吉が慶長三年(一五九八)に没し、朝鮮侵攻中であった武将達が撤退してくると、秀吉の武将たちの間で反目や対立が顕著となっていく。秀吉が亡くなって二年後に関ヶ原の合戦が起こり、勝者となった家康の地位は不動のものとなっていった。合戦後も伏見城にて政治に専念していた家康は、こうした混乱の中でも頻繁に碁会を催している。
慶長三年四月には、家康が宿館としていた伏見の亀屋栄任宅に本因坊、利玄坊が招かれ、九月には家康が訪れた南禅寺の碁会に仙也と息子の仙角も招かれたとの記録が残されている。余談であるが、この記録が当時碁打ちの長老格であった仙也の最後の記録である。仙也はその後亡くなったのかもしれない。
この時期は碁打ちたちの記録が多く残されているので、いくつか紹介する。
「当院(神龍院)にて碁を興行せしむ。利玄坊来たり」
この一月後にも家康は伏見城で碁会を催し、本因坊や利玄坊等を招いている。この時に「下京衆で十四、五歳になる小姓竹が利玄と碁」を打っている。
この頃から新しい打ち手の記録が登場してくる一方で、これまでの仙也、樹斎、宗心、庄林などの名が見られなくなり、算砂や利玄が上手の中心となる時代へ移行していったと思われる。
その他にもある。慶長四年の『北野社家日記』の記録である。一月二十二日「京衆の十人ばかりが当坊へおいでになり、振舞申した。碁があった」、三月二十日「今日、当坊へ利玄が来られ、碁があった。碁(盤)は利玄が持参され、そのほか本能寺の衆四、五人来られた。当坊はこれまでの碁から(利玄坊に)三目置いて打つように、手直りさせてもらった」ここにも利玄坊が出てきて本能寺の僧であることがわかる。碁盤を利玄が持参したとあるが、当時の碁盤は薄いもので、持ち運びは難しくなかったのであろう。指導対局のときの手直りも記されている。閏三月十七日「今日は利玄坊にて碁会があり、本因坊も出席されるとのことなので、見物におもむく」、慶長五年二月十四日「本因坊、弥蔵など碁打残らず(人数不明)お出になったので振舞いたした。本因坊より碁盤と碁笥を二箇いただいた」
このように秀吉没から関ヶ原の戦い前後にも碁打ちたちは多くのところに招かれている。これは秀吉という天下人が倒れても囲碁を愛好する人や後援する人は多く、混乱時でも碁会(将棋も含め)を多く催していたのであろう。
この時期は将棋でも動きがあり、慶長七年、大橋宗桂が山科言経を来訪し、「少将棋の作物五十(詰将棋五十局)を作ったので、一冊を禁中に献上したいと頼みに来た」とある。宗桂は一冊を言経に献上し、言経を経て天皇に献上されている。
信長や秀吉にとって遊楽の主たるものは茶会と能見物で、碁打ち・将棋指しの最大の援助者は徳川家康である。
遊戯史研究家の増川宏一氏は次のように述べている。
家康は上洛する度に二、三十人から五十人近い人数を呼び集めて酒宴を催している。公家、武家、商人、連歌師、茶人等が招かれ、碁打ち・将棋指しも招かれた。公家の集まりの場合は必ずといっていいほど連歌に興じているが、家康は接待役として碁打ち・将棋指しを呼び集めている。
家康が京都で催した碁会・将棋会には政治、経済、文化の面で主要な人たちが集まり、情報の交換もされていたのであろう。噂話や雑談などで多くの事柄が語られていたのではないだろうか。京都やその周辺の情報収集するためには格好の口実であったであろう。召し出された碁打ち・将棋指しには報酬が支払われたであろうから、家康は最大の庇護者であったといえる。
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