囲碁史記 第9回 本因坊算砂のライバル利玄
利玄のこと
利玄は一世本因坊算砂とライバルとして多く対局をしている人物である。三コウが発生した本能寺の変前夜の碁の算砂の対局相手としても知られている。
算砂と利玄の碁の力関係とはどのようなものであったのだろう。
本因坊算砂や利玄の前半生の実像は不明な点が多い。算砂の利玄との対局記録もその一つであり、囲碁界では、初めから「強き算砂ありき」で物事が語られてきて真実に目が向けられていなかった。
「利玄と十九年以前、備前岡山に於いて、互先に直りて、その後、方々にて都合十九番打ち申し候。この内十三番、拙子(拙者)勝ち申し候。五番利玄勝ち申し候。一番持碁にて候。樹斎と互先の時、二番みな勝ち申し候。(樹斎)定先にて四番、この内三番、拙子勝ち候。一番、樹斎勝ち候。山内首安(是安)と六番打ち申し候、皆勝ち申し候。そのほかの上手衆、定先にて二十番仕り候。その内十四、五番ずつ勝ち申し候間、色々書きつくるに及ばず候なり。
慶長八年卯 名判」
これは算砂自らが、越し方の戦績をまとめたものである。
慶長八年卯は江戸幕府が開かれた年で、その年の四月十九日に宮中で家康推薦による天覧碁が催されている(『慶長日件録』)。確かなことは分からないが、この覚えはその段取の資料なのかも知れない。
この内容で注目すべきところは算砂が対局した利玄と樹斎の記録についてである。
記述にある対局の十九年前は、天正十二年(一五八四)に当たる。備前岡山に於いて、手合割りは互先に直り候とあるので、この時期に算砂が利玄に追いついたことを意味している。時に算砂二十六歳、利玄二十歳である。
その後、天正十二年より慶長八年に至る十九年間に、利玄とは十九番対局し、算砂の十三勝五敗一持碁であった。算砂が八番勝ち越したと記している。つまり、算砂が利玄に追いつき追い越していったということである。
本因坊と利玄についての記述は慶長八年(一六〇三)、成立したばかりの江戸幕府に提出された申告書にもある。
「(略)利玄と九年の間定先にて都合三百七十四番仕り候うち、指し引き候て三十九番拙僧勝ちこし申候也。続勝は初めは小田原陣の年六番勝ち申し、次は名護屋陣の年十二番勝ち申し候。其の後また九番勝ち申し候。合はせて三度づつ勝ち申し候。利玄と百番碁の時、十一番勝ちこれあり候」
この申告書は本因坊の地位を認めさせるためのものであったのだろう。
本因坊と利玄が先相先であるなら、本因坊黒番の棋譜もあっていいはずだが、すべて利玄の黒番である。現在に伝わる棋譜のなかに本因坊先番の棋譜が紛れ込んでいるのか、本因坊の神格化のため、後代の者が本因坊先番の棋譜を意図的に削除したのか。また、算砂の棋譜は利玄とのものしか遺っていないことも不思議なことだとこれまで言われてきた。
ところが、近年(平成三〇年・二〇一八)、囲碁史研究家南雄司氏と古碁に造詣の深いプロ棋士福井正明九段により算砂黒番の棋譜が発見された。これは極めて重要な発見で、これまでの囲碁史の足りない部分を埋めるものであった。
算砂の全集である『古名人全集』では算砂の棋譜は三十二局全てが利玄との対局である。
南氏が算砂黒の碁を発見したのは二十一世本因坊秀哉の写本からであり、これにより算砂の棋譜は三十四局(他にもう一局)に増えている。このように南氏は多くの棋譜の発掘に努めておられる。
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