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唐詩に見る囲碁
中国の唐の時代には多くの詩人が登場している。著名な詩人や文人はほとんどが囲碁を打っており、詩の中にも囲碁が登場するものが多い。
ここでは代表的なものを紹介しておく。
杜甫
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まず、唐で有名な詩人というと杜甫の名が浮かぶ。杜甫(七一二~七七〇年)は幼少の頃より詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して「詩聖」と呼ばれている。また晩唐期の詩人、杜牧の「小杜」に対し「老杜」「大杜」とも称されている。
しかし、その詩の名声の裏には過酷な人生があった。
各地を放浪した末に三十五歳のとき、都長安に腰を落ち着け士官のために奔走、ようやく願いがかなったものの、安禄山の乱に巻き込まれ一年余の監禁生活を送る。有名な「国破れて山河あり」という句は、このときの惨状を詠んだものである。その後も官吏の職を得るが左遷されたり、放浪するなどの人生を送っている。
そんな詩聖杜甫の句を紹介する。
聞道長安似弈棋
百年世事不勝悲
(訳)
聞くところによれば、長安は碁の勝負にも似て、取りつ取られつしているとのことだ。
百年にもみたぬ間のことなのに、世のありさまは悲しみに耐えぬものがある。
『中国詩人選集』杜甫(岩波書店)引用
杜甫の「秋興八首」のなかの句。長安が安禄山に占拠されたが、翌年、取り戻すことに成功した。しかし今度はチベットに占拠されてしまう。そういう時代を詠んだもの。
さらに「江村」という作品がある。
青江抱一曲村流 青江一曲 村を抱いて流れる
長夏江村事事幽 長夏 江村 事事しずかなり
自去自来梁上燕 自ら去り自ら来る 梁上の燕
相親相近水中鷗 相親しみ相近づく 水中の鷗
老妻画紙為棊局 老妻は紙に画いて棊局を為り
稚子敲針作釣鉤 稚子は針を敲いて釣鉤を作る
多病所須唯薬物 多病 須つ所は唯だ薬物のみ
微軀此外更何求 微軀 此外に更に何をか求めん
年老いた妻は紙に線を引いて碁盤を作ってくれる。幼い子どもは針をたたいて釣針を作ってくれる。自分は病気になっていて必要なのは薬だけ。私の衰えた体に薬のほか何を求めようか。
杜甫は囲碁と釣りが趣味だったようで、それは他の句からも窺える。紙に線を引いて碁盤を作っているが、この当時では棋待詔であった王積薪も携帯用の紙の碁盤と木の碁石を持ち運んでいる。杜甫は心身が疲労した状態でこの句を詠んだと思われる。四十九歳のときの作だが、この五年後、再び放浪の身となり五十九歳で生涯を終える。
白楽天と元稹
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杜甫の時代は唐でも盛唐といわれ、中唐、晩唐と三つに区切ることができる。中唐になると白居易(七七二~八四六年)と元稹(七七九~八三一年)が現れる。二人で元白といわれた。二人とも囲碁の詩を詠んでいる。
詩人としては白居易の方が知名度があると思う。白楽天といった方が通りがいいかもしれない。日本でも白楽天の詩を愛好する者が多く、紫式部や清少納言にも影響を与えている。
まず白楽天から見ていこう。
山僧対棋坐 山僧 棋に対して坐し
局上竹陰清 局上 竹陰清し
映竹無人見 竹に映じて人の見る無く
時聞下子声 時に子を下す声を聞く
池上という白楽天の碁の詩の代表とされる。
山寺の僧が碁を打っており、その盤上には竹の葉影。竹が邪魔をして誰にも見られず、時々碁石の音が聞こえる。
「棋に対して坐す」は常套句とされ、棋は碁盤を指し、最後の「子を下す声」の子は碁石のことである。「子を下す声」という表現は白楽天が用いてから碁の詩の人気句になった。白楽天の六十四歳のときの作品で、若い時は政治批判の詩を作っては度々左遷されるが四十代のときにはそれもなくなり官位も得て静かな詩も見られるようになり天寿を全うしている。白楽天は酒も好きで次のような詩も見られる。
晩酒一両杯 晩酌は一二杯だが
夜棋三数局 碁は夜ふかしして三四局
白楽天よりも囲碁の詩に関しては元稹の方に長文のものがある。長文のため、訳文のみを紹介する。
碁盤に石音を立てて、のびのびした気分で日中を過ごし、これも君子の嗜みである琴の音楽や書道は甘んじて棄て、庭の井戸をのぞく気持ちも起きようがない。というのも、石を広い盤面に運ぶのは、海を埋め立てるのにも似ているからだ。まじりけのない心で戦おうとするうちに、赤く燃え立っていた灯火の先は早くも揺れて倒れている。
蛇のように長大な石は、山をめぐって合体するようにつながり、オオトリのように厚大な石は羽ばたいて嶺を越えるようにわたる。堂々たる正統派の配石もあれば、どんどん勝利を目指していく打ち方もある。劫ができてひたすら厳しい手を求めたり、シチョウをめぐって、ひどく危険な手段を弄したりもしている。いっぺんに無数の攻撃をしかけ敵陣に切り込むためにソッポを打っている碁もあれば、相手とにらみあって自重している碁もある。あっさり負けると意気地がないように言われるが、おごりたかぶった相手ほど仕掛けにかかりやすいものだ。(中略)
そんなぐあいに夕方いっぱい、誰も彼もが疲れを覚えずに碁を打つ。(中略)
次回はこの日でどうでしょうと話し合い、四方に散っていく。一人一人が生涯の碁癖を身につけ、同時に今後の生活は少々躓くこともあろうが、無限の楽しみが味わえるのだし、碁を知らぬ俗物の知ったかぶりだけが迷惑なのだ。
この囲碁詩は元稹の家に仲間が集まり夜を徹して碁を打っていたことを詠んだものである。盤上の心理の描写から最後には囲碁についての愛棋家としての想いも詠んでいる。この時代の詩人は愛棋家が多く、詩人同士で碁敵だったということもある。
元稹は白楽天と交流が深く「元稹に贈る」白楽天の詩もあり、職務上のことでも友情を感じさせる話が残っている。
杜牧
もう一人杜牧(八〇三~八五三年)についても触れておこう。杜牧は晩唐を代表する詩人で杜甫に対して小杜と呼ばれている。政治軍事に精通した官僚であるが、碁が好きで多くの棋詩を詠んでいる。その一つに「送国棋王逢」という題の詩がある。「国棋の王逢を送る」という意味である。国棋は国手と同じ意味であり、囲碁の名人のことを示している。王逢は杜牧の友人であり、詩の内容は王逢の名人芸を讃えるものになっている。
唐代には他にも多くの囲碁に関する詩が詠まれているが、それぞれ紹介していると紙数が足りなくなってくるので、代表的な人物の代表的なものを紹介するに留める。また、日本でも歌や作品、日記に囲碁が多く登場するので、それもいずれ紹介したい。