囲碁の日本への伝来②
囲碁の日本への伝来については、どのようにして持ち込まれ、どのようにして広まっていったのかということも考えなければならない。中国や朝鮮半島から伝わり人々の間で広まっていったとするのは普通の考えだが、まずどこに持ち込まれたかということである。渡来人により最初から一般に広まっていったのか、一部の人達によって遊ばれていたのかということも重要である。一部の人達とするのならば権力の中心にいる人々(朝廷等)であると考えることができる。
それでは各説を見ていこう。
弁正
弁正という人物について触れておこう。弁正は秦氏の出身と言われ遣唐使として入唐している。
秦氏は秦の始皇帝三世孫の孝武王の末裔を名乗る功満王と、その子の弓月君を祖とする。仲哀天皇八年に功満王が来朝し、その後、弓月君が応神天皇十四年(二八三)に百二十県の民(三万~四万人)を率いて帰化したとされている。
『日本書紀』によると当初、弓月王は百済から民と共に来朝する予定であったが新羅の妨害によりそれがかなわず、民は加羅国に留まっている。そして応神天皇十六年に日本の援助により民もやってきたという。仁徳天皇の時に秦氏は諸郡に分かれて「波多」の姓を賜り養蚕織絹をして奉仕し、雄略天皇の御世には「太秦(うずまさ)」の号を賜った。京都市右京区太秦は秦氏の土着した地の一つであり拠点であった。秦氏は養蚕と機織の技術により強い経済力を築いている。
秦氏と仏教の関係は推古天皇十一年(六〇三)に聖徳太子に仕えた秦河勝は広隆寺を建て、仏教の興隆に深く関わっている。秦河勝と弁正に系譜上の繋がりがあるかは不明であるが、こうした仏教との関わりが秦氏である弁正に影響を与えたのであろうか。
話を遣唐使に進める。吉備真備は第八回目の遣唐使として唐へ渡っているが、弁正はそれより前の第七回目の遣唐使として入唐している。弁正は大和大安寺の沙門(僧)で唐の玄宗が皇太子のときに囲碁の対局相手をしたと伝えられる。
そんな弁正が唐都長安に着いたのは七〇一年、中宗の治世である。
この頃、唐では則天武后が政をほしいままにし、武后が世を去ると中宗の皇后韋后が帝の毒殺を企てるなど簾中政治が行われていた。韋后は唐に代わる新たな国を建てようとしていたが、それを阻んだのが中宗の甥である李隆基(後の玄宗)である。
その後、皇帝となった玄宗は「開元の治」と呼ばれる様々な制度改革で唐を全盛期に導くが、後半生では寵愛する楊貴妃に溺れて政治を顧みず国を傾ける結果となった。
書や音曲に通じる文化人であり、囲碁の愛好家でもあった玄宗は、囲碁をもって仕える官職「棋待詔」を設置し、囲碁が大いに栄えていく。
そんな玄宗が皇太子時代に日本の僧侶弁正と碁を打ったというのである。
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