囲碁史記 第138回 木谷実・呉清源 鎌倉十番碁
十番碁開催のいきさつ
呉清源は昭和十四年から三十一年まで、打込み十番碁を多く行い、打込み十番碁の覇者とも称されている。中でも昭和十四年に行われた木谷実との「鎌倉十番碁」が有名である。
昭和十三年に本因坊秀哉が木谷七段と引退碁を打ち棋界を退くと、世間では、現在誰が日本の第一人者かということが話題となるが、呉清源か木谷実のいずれかであろうというのが大方の見立てであった。
そこに目を付けたのが読売新聞であり、木谷実・呉清源打込十番碁が企画される。会場が主に鎌倉であったことから「鎌倉十番碁」とも称されている。
当時の新聞碁の状況は、日本棋院大手合の棋譜掲載を独占する朝日新聞は木谷、呉がいつ八段になるのかと読者の興味をそそり、毎日新聞(東日・大毎)は本因坊戦を立ち上げ話題となっていた。一方で、日本棋院と棋正社の院社対抗戦や、本因坊秀哉と呉清源の対局など、抜群の企画力で部数を伸ばしてきた読売新聞は、この時期これという企画がなく、朝日・毎日の後塵を拝していたといえる。鎌倉十番碁は読売にとって起死回生のチャンスであった。
関係者の話しによると、もともとこの企画は読売新聞が発案したものではなかったらしい。
読売のエース観戦記者は社長直属であり、代々「覆面子」を名乗っていた。当時の四代目覆面子である三堀将は、ある日、所用があり神奈川県平塚市で暮らす木谷を訪ねたところ、雑談の中で木谷から、呉との四番手直りの打ち込み制の十番碁を提案されたという。この話を三堀から聞いた正力松太郎は即刻具体化を指示し、三堀が両者との交渉や記事の執筆などをすべて担当した。なお、三堀には給料とは別に二十円(現在の約十万円)の手当が支給されたという。
木谷と呉は大親友であり、話し合いはスムーズにまとまり打込十番の開催が正式に決定する。
二人はすでに十番碁を争った経験があった。打ち込み制ではなかったが、時事新報社の企画で昭和八年三月から打たれ、当時木谷は二十四歳で五段、呉清源は十九歳の五段であった。
この十番碁を争っている途中には、二人で一週間ほど信州の地獄谷温泉にこもり「新布石」を編み出している。
結局、この十番碁は第六局まで打たれたところで木谷が六段に昇段したため三勝三敗で中止となっている。
その後、二人とも七段となり、木谷にしてみれば、また気心の知れた呉とじっくり打ってみたいという気軽な気持ちで提案したのかもしれない。
しかし、打ち込み制は棋士の名誉がかかった真剣勝負であり、打ち込まれれば「格下」のレッテルを張られることになる。
読売新聞が設定したルールは、両七段が対等の手合割で対局し、四番勝ち越せば一段差と同様に先相先の手直りとなるという過酷なものであり、これは当時進行していた毎日新聞の「第一期本因坊戦」を意識したものと推察できる。
対局の内容
十番碁は四番手直りの打込み制、持時間十三時間、三日打ち切り、封じ手の採用、手合中は泊まり込みとするなど、多くの試みが採用された。
第一局は、昭和十四年の九月二十八日、二十九日、三十日と三日間をかけ、鎌倉の建長寺で行われた。
終局するまで毎日打ち続けるという過酷な対局であったが、封じ手の採用と共に、かつて本因坊秀哉と呉清源の対局で問題となった打掛後に他の棋士と充分に検討する時間が無いことから、それまであった不公平感は解消されていた。
この第一局ではハプニングが発生している。
終盤の夜遅く、黒157手目が打たれた直後に、木谷七が鼻血を出したために、障子やガラス戸が開け放たれ、廊下で木谷氏が悶々と転がる事態が発生したのである。持ち時間が残り少ない木谷は頭を手拭で冷しつつ 「向うが考へている間に、私も見ていたいのだ」と叫び、一時は無理に盤の前に座ったものの「駄目だ」といって再び廊下に転がる状態であった。
人々が右往左往している騒動の中、一方の呉清源は部屋の電灯の真下で険しい顔をして長考していた。三十分もその姿勢のままで、一言も発しないで、一心不乱で盤面に集中していたという。
やがて、機を見て「呉さん、どうしましょう、少し休憩されますか」と、棋院の八幡幹事が声をかける。恐らく呉清源がここで次の手を打ってしまうと、残り九分しかない木谷は苦境に陥ってしまう、とは言え、呉が打ってから三十分なり一時間なり休憩するのでは、時間的に追い詰められている木谷に考える時間を与えることになり不公平となる。従って呉氏が打つ前に休憩にした方が良いと考えたのであろう。
しかし、呉は静かに腕時計を眺め、「早く打ちましょう、早く済みますから」と答えている。そして、次の手が決まったのか顔を上げ、廊下に向って「木谷さん、どうします、休みますか、私はもう打ちますよ」と声をかけた。水を打ったような沈黙が数分続き、やがて、濡れ手拭で鉢巻きをした木谷が、よろよろと廊下から戻り、呉が158手目を打つと同時に、木谷は「休みますか」と発言し、呉も了承、ここで二十分の休憩となったのである。
この様子が観戦記により新聞で紹介されると、読者からは、呉は不人情だと非難する投書が多く寄せられたという。非難の投書が多かったのは戦争の激化による中国人への差別意識も影響していたと考えられる。
しかしながら、呉は決してその様な冷酷な人間ではなく、盤上に没入し、木谷が鼻血を出した事を知らなかったと言われている。
ようやく打つ手が決まり我に帰ったところ木谷が居ない。そう言えば鼻血を出したと言って騒いでいたような気がしたがどうしますと声を掛けたに過ぎなかったという。
その証拠に、呉は一手打った後に休憩すれば木谷が有利になるのにもかかわらず、 即座に休憩を承諾している。
結局、第一局は持時間の少ない焦りから木谷が誤り、呉の白番二目勝ちに終った。 そして、当初、親友同士で気軽な気持ちで始まった十番碁は、読売 新聞の正力社長の陣頭指揮による大宣伝もあり、「世紀の十番碁」として徐々に争碁のような雰囲気を帯びて行くことになる。
十番碁のすべての結果は次のとおりである。
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