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囲碁史記 第14回 安井家の隆盛と隔蓂記による囲碁記述


「隔蓂記」にみる安井家の動向

金閣寺(鹿苑寺舎利殿)

 「隔蓂記」は鳳林承章の記した膨大な日記である。鳳林承章は権大納言勧修寺晴豊の第六子で若くして鹿苑寺に入った。鹿苑寺は現京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で金閣寺の名で知られている。もともと鹿苑寺は室町三代将軍足利義満の山荘として建てられたもので、将軍家や公家の遊楽の場であった。当時、皇族や公家の子弟が有名寺社に入ることは通例となっていた。
 承章の記した『隔蓂記』には生家の勧修寺家や他の寺との交際の様子や、公卿や上級僧侶の徳川幕府成立後の幕府観についても触れられている。承章が見聞し、自らも加わった遊芸は多く、囲碁の記述も多く見られる。承章自身も碁が好きで、自身の碁の記録をはじめ、碁打ちの名も見られる。その中には安井算知の名が多く見られ、安井家と京都の碁打ちとの交流の様子も記録されている。
 
 明暦三年(一六五七)六月二十六日に次のような記録がある。
「安井算知を招いて碁見物をする。則ち、(算知は)算哲と算知の息の小三郎と久須見九左衛門の両人も同伴してくる。算哲、小三郎、九左衛門とは予は初めて会った。玄碩も招いていたのでやってきた。算哲と玄碩が二番打ち、はじめは算哲が七目勝った。後の一番は玄碩が四目勝った。算哲が先番だった。算知と関目民部の三番は全て知老が勝った。五目六目を民部が居石(置石のことか)であった。算知と上大路能在の一番は、(能在が)石を六つ居て算知が勝った。小三郎と友世の二番は、友世が三目居たが小三郎が勝った。南歌と九左衛門の二番は南歌が石を五目居たが持碁であった。
 見物のために午後、彦公が来たが明哲は来なかった。給仕として西平吉、渡瀬右近が来、野路井山三郎も来た。見物の衆は、常に来院されている北野衆が来られ、杉本院存昌、伊藤、慶允の両人と南歌、関民部も来られた。梅林能円は連歌のために暇がなく来られなかった」

 盛大な碁会が鹿苑寺で催された記述である。『隔蓂記』には承章が住職を務める鹿苑寺の記録があり、鹿苑寺を会場とした文化的な集まりの記事が多い。囲碁の記述もこの明暦三年から多くなっている。
 これより前に囲碁の記述が見られるのは十五年前の寛永十九年のものである。十月三日に、「南歌が来られ、碁打の少年小吉を同道する」とあり、その半月後、「等閣が碁打の少年権四郎という者」を連れてきている。権四郎はこの半月程後に今度は医師の立益に連れられて鹿苑寺を訪れている。小吉も権四郎もこのとき少年であるが、碁打ちとして認められている。
 この頃には碁を生業とする仕組みが出来てきたのであろうか。ちなみに碁・将棋を管轄する寺社奉行が設置されたのはこれより七年前の寛永十二年のことである。
 さて、話を明暦三年の記事に戻す。
 碁打ちが訪れたという記録は十五年ぶりの事である。招かれたのは安井算知をはじめ、算哲、小三郎、久須見九左衛門である。算知はこの年四十一歳、少し後に碁所となる。以前に六番碁を打った二世本因坊算悦は存命ではあるが、翌年に病没している。算哲は二世算哲の事、算知の師であった安井算哲の実子で父の名を継いでいる。このときは十九歳で、後に述べるが三十五歳の時に囲碁界を退き幕府天文方渋川春海を名乗る。小三郎は算知の子である後の安井知哲でこの年十四歳である。安井家の記録によると、この年十月に江戸で算哲と知哲は新規召し出され十人扶持を支給されている。
 久須見九左衛門については後に述べるが、現存する日本初の打碁集『碁傳記』の作者である。算哲と互角に打っている僧の玄碩は法橋(僧位の第三位)という位の人物で、中西という姓であることが分かっている。
 この集まりでは数人が指導対局を受けている。五目や六目置いて打っている記述も見られる。
 このような碁会は二年後の万治二年四月二十六日にも行われている。

「晴天。安井算知を招く。内々の約束であった。算哲、知哲も同道する。弟子の一人が初めて来る。因州の者で長九郎というが、まだ若輩である。玄碩法橋も来られる。見物の衆は南歌、片山将監、岡本下野氏寅で賀茂衆も来られた。関目民部は急病人に針を頼まれたので来られなかった。友世、渡瀬右近、梅林能円、鳥居能賀、神光坊能碩、上大路能在、北大路能覚、能貨、能珍、西久松能通などが来て、ちょうど吉村の処に居られた堀佐介も来られた。伊藤、由庵、谷口半左衛門も見物された。慶彦首座と明哲は今日菊池東因が左伝の講釈をするというので登山をして来られなかった。京衆は半鐘の時分に帰られた。西陣の権四郎も来て囲碁があり、算哲と権四郎は二番とも持碁であった」

 さらに鹿苑寺の碁会は一ヶ月後の五月二十三日にも記されている。

「内々に安井算知が来訪すると言っていたが、今日、予に隙ができたのでその旨を伝えると、来られるとのことであった。算哲、知哲、権斎、権四郎を同伴された。算知と権四郎が碁を打ち、権四郎は二目置いて打ったが算知が四目勝った。算哲と権斎も二番打った。そのほかの下手衆もまた碁を打った。今日は玄碩法橋が呼ばなかった」

 このときは四代将軍徳川家綱の時代で、囲碁界では安井算知を筆頭とする安井家の隆盛期である。算知には長九郎という弟子の名が見られるほか、多くの弟子をとったという記述が見られる。

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