囲碁史記 第132回 本因坊秀哉・呉清源戦
日本選手権手合
昭和八年秋季大手合にて、木谷実五段と呉清源五段が用いた新布石法に囲碁界は騒然とし、本がベストセラーになるなど社会現象となった。木谷はこの大手合では二位であったが、それまでの通算成績により六段への昇段が確定している。
この年、囲碁界では、もう一つ大きな出来事があった。読売新聞社主催の「日本選手権手合」である。当時の精鋭十六人によるトーナメント戦であり、優勝者は本因坊秀哉名人との対局が予定されていた。
秀哉は、大正十五年院社対抗戦の初戦で雁金準一と対局して以来、日本棋院内での定式手合や、新聞社主催の手合に僅かに出席しただけで、もちろん昇段がかかった大手合にも出場していなかった。その秀哉名人と、今話題の木谷、橋本、呉清源ら新進気鋭の若手棋士との対局が熱望されていたところであり、院社対抗戦で成功を収めた読売新聞の正力松太郎が、こうした世間の声に応じて秀哉を担ぎ出すことに成功したのである。
なお、秀哉名人は、呉清源や木谷が発表した新布石法について否定的な考えを示していた。「囲碁革命 新布石法」の共著者である囲碁ライターの安永一氏は秀哉名人とも親しく、この新布石について意見を求めたことがある。すると秀哉は、「どちらの打ち方が良いのか理屈で割り切れるものではなく、碁盤の広さで決まると考えている。もし碁盤が二十一路なら新布石の方が良いが、現在の十九路では旧来の布石の方が勝っている」と答えたそうだ。
もし、木谷実か呉清源が優勝して秀哉名人と戦うことになれば、新旧両法いずれが優れているかはっきりする訳で、誰が勝ち上がるか注目されることとなった。
日本選手権手合は若手棋士の活躍が目立った大会であった。ただ、このトーナメントは現在のような互先コミ出し制ではなく、段位による手合いで行われたため、もともとコミなしで白番の上級のベテラン棋士には不利な対局ではあった。
そして最終的に決勝は木谷実を破った呉清源と、関山利一を破った橋本宇太郎との兄弟弟子の間で行われている。
橋本は決勝までをすべて白番で勝ち進み勢いに乗っていて、決勝戦では黒番を引き当て、一気に優位に立っている。しかし勝負というのは分からないもので、橋本は優位であるが故に、堅実に行こうと固くなったのか、終盤に逆転され二目負けとなってしまった。
気落ちして会場を後にする橋本に対して、読売新聞社社長の正力松太郎が、満面の笑みで「どうもありがとう」と言って握手を求めてきたというエピソードも残されている。読売新聞としては秀哉の相手が橋本より呉清源の方が話題性もあり、販売部数拡大につながると考えていたのだろう。
こうして、当時五十九歳の名人秀哉と、二十一歳の呉清源の、囲碁史に残る名局が生まれることとなる。
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