囲碁史記 第140回 第二期本因坊戦
第二期本因坊戦の予選が始まったのは、第一期の関山・加藤六番勝負が終わって十日あまり過ぎた昭和十六年七月三十一日の事である。
第一期の参加者は日本棋院大手合の甲組四段以上の棋士であったが、このとき既に甲乙両組制度は廃止されていたので、第二期以降は五段以上の棋士で争う事となった。
なお、第二期は、第一期と同じ様に六段以下で予選が行われ、予選から決勝リーグまで、すべて二日打切り、持時間各十時間で行われた。
五段級予選
最初の五段級予選は七名の棋士により、一回戦は七月三十一日、二回戦は八月七日に開催されている。その結果、長谷川章、坂田栄男が六段級予選に進んでいる。なお、篠原正美五段は第一期の実績により六段級予選へシードされており、二期の五段級予選には出場していない。
下記のトーナメント表が、その結果である。
六段級予選
六段級予選も七人で行われ、一回戦は八月十三日、二回戦は八月十九日に開催された結果、光原伊太郎、篠原正美が勝ち進んでいる。
下記のトーナメント表が、その結果である。
選士級予選
前回は、ここで四度にわたるトーナメント戦を行い、総得点で決勝戦を行う二名を選出していたが、今回は選士級予選として四回のトーナメント戦で選ばれた四名で決勝リーグ戦を実施することとなった。
このような方式がとられたのは、甲乙両組制度廃止にともない便法昇段と言われた特権が旧甲組棋士に与えられ高段の昇段者が多くいたためで、七段級参加者は十二名にも上っていた。
具体的には十二名で第一回戦を行い勝者が勝ち抜け、第二回戦は残りの十一名で争い勝者が勝ち抜け、これを四回繰り返し四名を選出するというものであった。
昭和十六年九月三日から翌年にかけて行われた選士級予選は、三回戦までで、木谷実、篠原正美、久保松勝喜代の三者の出場が決まっていた。そして、四回戦の決勝は加藤信八段と橋本宇太郎七段で行われることとなったが、久保松が急死したため、四回の成績を通じて次位になるものが補欠となる規定に基づき、加藤・橋本双方とも勝負に関係なく決勝リーグへ進出することが決まった。
四回戦は組み合わせが分かっておらず、恐らく決勝も行われていないと考えられている。
久保松は関西中心に活躍し、門下の少年達を大成させるため、東京の秀哉門、鈴木門、瀬越門とそれぞれ別々の許へ送り出していた。今回の第一回戦で久保松が撃破した橋本宇太郎や木谷実も元門下生である。
門下生を東京の各師匠に預けたのは、日本棋院の創立を睨んだ久保松の名布石と評している者もいる。
選士級予選の第一回戦が始まった時には、既に久保松七段の病状はかなり思わしくなかったという。決勝対局を日本棋院で行うのは不可能な状態であり、橋本七段が入院先の慶応病院へ出向いて決勝戦が行われている。昭和十六年十一月六日のことである。
橋本七段としてみれば、元師匠とこのような状態で対局する事となりさぞ打ちにくかったと思われるが、結果は久保松の白番三目半勝ち。
橋本は勝った久保松は本当に嬉しそうにしていたと当時の様子を語っている。
十二月八日、日本軍によるハワイの真珠湾攻撃が行われ日米が開戦する。
その翌日に、久保松は神戸へ帰っているが、病状は回復することなく、十二月十五日に亡くなっている。四十八歳という若さであった。
皮肉なもので、久保松の急逝で繰り上げでの出場という形となった橋本宇太郎は、四選士決勝リーグ戦で三戦全勝となり、本因坊利仙(関山利一)への挑戦権を手に入れている。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?