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囲碁史記 第126回 日本棋院の普及活動と春秋大手合の創設
新会館の竣工
大正十三年七月十七日に創立された日本棋院は、懸案の新会館建設について、副総裁大倉喜七郎の全額出資により、麴町区永田町に敷地を確保し、十三年秋に起工している。竣工までの間、牛込区船河原町の旧中央棋院を仮事務所として初の定式手合を開始。その後、銀座に移転し竣工を待つこととなる。
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日本棋院会館は大正十四年四月に竣工。場所は麴町区永田町二ノ一 (赤坂溜池際)という帝都の中心地であった。
敷地百八十坪の中に、鉄筋コンクリート二階建、建坪延二百坪の堂々たるもので、外観は日本風の趣のある造り、内部は階下は広間、階上は小間に分かれ、各室毎に暖房装置の設備が完備されていた。事務室、食堂、廊下等はリノリュームを敷き、その他は畳敷であった。として、があり、實に至れり盡せりの好設計で、外が和風でありながら内部が洋風であったのは、新時代の囲碁をイメージしていたといわれている。建築費及び諸設備費は十万円である。
同年五月に、まず会館落成式が行われ、翌十五年四月十一、十二の両日に日本棋院開館式が催される。来場者は二百有余名に達し、大倉副総裁の挨拶、本因坊秀哉名人の祝辞朗読、来賓総代の挨拶があり、その後、囲碁の指導や対局が行われ午後八時に終了したと記録されている。
まさに政治の中心地である永田町に立派な会館を建て、社会的信用度の高い各界の名士が役員を務める日本棋院は、「囲碁史記 第123回」でも紹介したが、日本文化に貢献するものとして、大正十四年八月二十二日に文部省から財団法人の認可を得ている。なお、法人認可を斡旋したのは、囲碁愛好家であった岡本武尚弁護士と言われている。
永田町の棋院会館は、通称「溜池の棋院」と称され、その後の囲碁界の中心地となるが、昭和二十年の東京大空襲で焼失し、移転を余儀なくされている。
囲碁の普及活動
日本棋院は、囲碁のより一層の普及のため、一般の愛好家への普及活動にも力を入れている。
大倉副総裁の提唱により段級免状の発行料徴収を廃止し、一般の愛好家への便宜をはかった他、定式手合を大衆ファンへも開放し、本因坊名人以下、各高段者の対局、また新進棋士の熱戦などについて一般客の観戦を可能とした。
機関誌については、日本棋院創設に伴い、方円社の「囲棋新報」、中央棋院の「棋院新報」を廃刊とし、新たに「棋道」を創刊していたが、会館完成を機に、下級者向の雑誌「爛柯」(後、囲碁クラブと改題)も創刊している。
両誌は戦争による中断を挟み平成十一年(一九九九)まで刊行され、現在では合併により「碁ワールド」となっている。
少年棋士養成の制度(院生)の始まり
昭和十五年四月の棋院開館の際に、新たに設けられた制度として、少年棋士養成の制度が挙げられる。方円社でも塾生制度はあったが、日本棋院でも次代を担う新たな人材の育成に力を入れている。
その第一期生には、福原義虎、島村利博、宮下秀洋、苅部榮三郎(三段にて物故)、太田清(初段にて物故)等がいた。
その教導には、中川亀三郎(千治)が、初代指導役としてあたり、昭和三年に中川が亡くなると、本因坊名人自らがこれに就任して、後進の指導にあたっている。前述の棋士のほか、藤澤庫之助ら、その後活躍する棋士の多くが、この院生制度より巣立った人々である。
日本棋院春秋大手合の創設
日本棋院創立以来、所属の棋士は毎月二局の定式手合を行っていたが、単調な対局にマンネリ化してきたほか、各新聞社が趣向を凝らした催しを企画したこともあり、活性化を望む声が多く聞かれるようになってきた。
そこで昭和二年より導入されたのが、春秋二期の大手合制である。
趣意書
この制度は大相撲を参考に造られたといわれ、要点を抜粋したものが「坐隠談叢」に掲載されている。
(略前文)彼の春秋二回の國技館の角力は國技館の生命なり。棋院の手合は即ち棋院の生命なり。之れを活用せんか、則ち棋院榮え、これを活用し得ざれば則ち棋院裵ふ。棋院の盛衰興亡、曳いては棋道の隆替、一に手合の如何に關す。手合の重大なること、それ此の如し。玆に於て我日本棋院は、世趨に鑑み、棋道の隆盛を想ひ、毎月二回の定式手合をして、年二回春秋の際大手合を爲す事とし、其の期間を各二ヶ月とし、期間中は新聞棋はもとより棋院の稽古を休み、一切の手合を休止して、専ら此勝負を争ふ。大手合は棋院従来の成績に法り、選手を選び、これを東西二組に分ち、各同局數の勝負を争はしめ、其の成績に依りて昇段を決す。所謂、之れ國技館に於ける春夏二回の大場所なり。これに勝つ者は、乃ち昇段あり。然らざるものは、乃ち選手たるの資格を失ふ。大手合以外の手合は、所謂花角力にして昇段に没交渉なり。故に棋家の榮達は、一に懸りて此の寘剣勝負の戰績如何に關す。されば苟も趣味を棋道に有し、棋界の風潮に後れざらんと欲する者は、此龍攘虎搏の大棋戰を開却すべからず。故に我棋院は、二季の大手合期間中は週刊棋道を發行して、其の輸贏戦績を詳報し、世の好棋者にち、以て棋道を盆せんとす。若し夫れ實行の細目に至つては、別に付する處の手合規定に詳かなり。願くば天下江湖の好棋者諸賢、揮って愛護の栄を給はらん事を。
趣意書中にある手合規定は、最初に実施された際には次のとおりとなっている。(授賞規定甲組四等迄、乙組二等迄とある のを、甲乙組共三等迄と改められた。)
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