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囲碁史記 第1回 初代本因坊算砂とは


本因坊算砂とは

肖像集(栗原信充・江戸後期)

 囲碁史において多くの史料や棋譜が残されるようになったのは本因坊算砂が登場してからのことである。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の俗にいう三人の天下人の時代である。近世の碁はここから始まったといえる。
 算砂は本因坊第一世。永禄二年(一五五九)五月、京都長者町で生まれた。本姓は加納、幼名は與三郎といった。
 與三郎は八歳のとき、後に寂光寺の開祖となった久遠院日淵の門(日蓮宗)に入り、翌年剃髪して本行院日海と名乗った。
 後に日淵より寂光寺を任され二世住職となっている。

 この日淵と日海は叔父甥の関係であると『本山寂光寺誌』に記されている。
 算砂には仙也という囲碁の師がいる。この仙也については堺の住人であること、碁がかなり打てる息子仙角がいたということ以外、生没年なども分かっていない。現在では棋譜も残っていない。
 仙也の名は豊臣秀吉が碁打衆に授けた朱印状に出てくる。
 天正十六年、秀吉は碁打ちを集めて囲碁大会を開いた。そのとき算砂が優勝し、朱印状を与えたのである。
 それは、他のものはすべて本因坊に定先じょうせん以下を命ずるというものだった。しかし、仙也だけは本因坊の師ということで互先たがいせんとするとも書かれていた。
 囲碁は上手うわてが白、下手したてが黒を持つ。定先は下手が常に黒を持つことであり、互先は実力が同じでどちらが上手でも下手でもないためその場で黒白を決める。
 ようするに仙也は師ということで特別な扱いを受けたというのである。
 この上手は囲碁の強い人のことをいう。後に七段を上手じょうずと言うようになる。
 本因坊はこの上手と皆定先以下(石を置く)ということである。
 
 初代本因坊算砂については、明治三十七年(一九〇四)に安藤如意が囲碁通史『坐隠談叢』を刊行し、その中で算砂と信長・秀吉・家康との関係について次のように記述している。
「算砂は京都日蓮宗寂光寺の僧侶日海であったが、信長にその碁技を名人と称えられて愛顧され、本能寺の変の前夜御前対局を行った。次いで秀吉からその技量に対し二十石の扶持を受けた。更に家康からは当時の主な碁打とともに五十石の扶持を受け、囲碁の家元としての本因坊家を創始して算砂と改名し、名人の称号を受けた。この間、後陽成天皇の御前で利玄と天覧対局を行い、後に権大僧都、法印に任ぜられた」
 ただし、記述中の信長、秀吉に関する記述は確実な史料に基づいておらず、虚構であるとする説もある。

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