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囲碁史記 第11回 本因坊算砂の後継者


中村道碩

 二世名人となった中村道碩は京都の出身。本能寺の変があった天正十年(一五八二)の生まれである。慶長十七年(一六一二)、三十一歳の時には、師である本因坊算砂と共に幕府から五十石の禄を与えられている。五十石は算砂、利玄、将棋の大橋宗桂と同じであったが五人扶持は無かった。次世代のリーダーと目されていたのは間違いないが、上の三人とは差をつけられたということなのであろう。
 井上因碩の師匠で井上家の元祖(世系書き換え後は一世)とされているが、これは後代の改作によるもので、そもそも当時は家元制度は確立しておらず、因碩とは師弟関係はあってもそれぞれが碁打ち衆の一人として独立した存在であった。また、道碩の「碩」は元来「石」であり因碩とは異なる。
 慶長年間に算砂や利玄らとともに禁裏や公家屋敷などに召出され、寛永三年(一六二六)六月二十日には京都二条城において徳川秀忠の御前で安井算哲と対局を披露している。このときの対局が御城碁の始まりとする説もあるが、それについては次回に論じてみることとする。この三年前の元和九年に算砂が没し、それ以降道碩は囲碁界のリーダー的立場になっている。徳川幕府においても家康が元和二年に没し、元和九年には二代将軍徳川秀忠が将軍職を家光に譲るなど世代交代が進んでいた。二条城での対局時に秀忠は大御所であった。
 道碩は算哲と数年の間に百二十局打ち、四十局の勝ち越しであったが、算哲は技量の上では道碩に及ばないものの、飽くことのない勝負への執着心は「碁は勝っても、命を取られる」と道碩に言わせるほどであった。
 道碩と師の算砂との棋譜が発見されていないのも不思議の一つであり、意図的に残されなかったとも言われている。
 元和九年(一六二三)四月、病床の算砂から名人に進められ、家督(?)を譲られる。そのときのことが『碁所旧記』に記されている。
 
中村道碩儀者本因坊諸弟子の内諸人に秀で勝越候に付算砂相果候刻、碁所之御証文并印可状を相添相譲申候事
但安井算哲は名人上手間之手合為りと雖も、道碩碁所為るに依り、算哲定先置べき旨算砂遺言に付算哲定先にて数年仕候事

 
算砂より道碩へ印可状之写
今度我等永々煩候に付て快気を得ず候、然れば其方囲碁諸弟子に秀で類無きに依り家督相譲り候、向後は我等手合同前に之を許候、此上は手相以下之法度其の方計為るべき者也、仍印可状如件。
   本因坊 算砂 判
 元和九年癸亥卯月廿二日     中村道碩

 
 碁所の制度がない時代であり、最高棋格の名人が碁打ち衆の取りまとめ役であった。家督とは信長や秀吉、家康からの印可状の類とされる。
 同時に本因坊を継ぐ者として指名された当時十三歳の杉村算悦の後見を託されているが、それは算砂が道碩の技量を認めていたからである。この頃の碁打ち衆は家元制度下に束縛されない存在であり、名人となりながら中村姓を名乗っていたのは、算悦という本因坊を継ぐ存在がすでにいたからなのか、あるいは家元制度の黎明期にあったからというのがこれまでの定説である。
 いずれにしても、道碩は単に碁打ち衆の責任者という立場を受け継いだだけであったと考えられている。算悦についても算砂の遺言が本因坊家の相続を意味していたのかは議論の余地がある。

寂光寺にある中村道碩の墓 ※上段左から二番目

 師の算砂から衣鉢を受けた道碩は算悦を七年間養育する。寛永七年(一六三〇)に算悦は三十石五人扶持を与えられ、師命を果たした道碩は同年八月十四日に師の後を追った。墓は師の算砂と同じ京都寂光寺にある。享年四十九歳、法名は徳勝院道碩日悟。
 家元制度や名人碁所の創設については諸説あり、多くのことが論じられている。

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