見出し画像

囲碁史記 第116回 大正期の棋士


 明治以降、対立を続けてきた囲碁界が合流へと向っていく大正時代、本因坊秀栄や巌埼健造の時代より世代交代が進み、キーマンとなる新たな棋士たちが登場してくる。

小岸壮二

修行時代

小岸壯二

 本因坊門下の中で、碁界統一に向けて中心的な役割を果たしたのが、本因坊門下の小岸壮二である。小岸は次期当主として秀哉が最も期待をかけていた人物である。
 先日、囲碁史会員の中垣内氏が、小岸に関する研究を発表されたので、参考にしながら紹介させていただく。
 小岸壮二は、明治三十一年(一八九八) 一月三日に生まれる。小岸家は大分県中津の元藩士の家で、父(友 路)は大阪に移住し、鯰江町の助役を務めていたといわれるが、転居の時期がはっきりしないため、壮二の生誕地は、中津と大阪の二つの説がある。小学校は大阪の今福小学校に入学し、数学が得意だったと『坐隠談叢』 で紹介されている。
 なお、「小岸」の読み方であるが、「コギシ」と「オギシ」 が混在している。中垣内氏の調査によれば「本因坊秀哉全集」(日本棋院) では「オギシ」とあるが、講談社の現代囲碁大系第一巻 『明治大正名棋家集(一)』には、小岸を「おぎし」と呼ぶ人が多いが、「こぎし」が正しいと明記してある。また、壮二逝去後に刊行された「小岸六段追悼集」(中央棋院)には、野澤竹朝が「コキシシス」の電報を受け取った、と寄稿していることから、「コギシ」が正しいと結論付けている。

 囲碁棋士を志して明治四十一年十月に上京、 本因坊秀哉の門下となる。
 壮二は三歳上の兄「勇也」と一緒に上京し、しばらく本因坊家で内弟子生活をしていたという。幼い頃、「俺を負かすと、夜トイレに一緒に行ってやらない」と言われ、強かった壮二が兄にだけは負けていたというエピソードがある。なお、勇也はやがて社会主義者となり、軍国主義が高まる中、反戦運動に身を投じていく。そして、官憲の取り調べで拷問を受け、釈放後病床に就き、昭和十六年に逝去している。
 壮二が入段したのは、一般に大正四年十月とされている。
 本因坊秀哉門下では宮坂菜二が最古参で、小岸が入段した時期にはすでに三段となり、新聞棋戦でも活躍していたが、やがて十歳年少の小岸が頭角を現わし、宮坂を追い抜いていく。
 なお、入段の時期については、坊門研究会で大正三年から「初段」として対局し、自身の打碁記録『奮闘録』にも名前の傍らに「初段」と記された譜がある。『奮闘録』は原本の所在は不明だが、写しが発見されている。
 壮二の弟弟子であった村島誼紀が、昭和六年七月 (壮二没後十年)に、『棋 道』で修行時代の壮二の棋譜を解説しているが、そこで、十六歳頃には優に初段の実力はあったが、師はこの伸びゆく天才のたわまん事を恐れてか中々初段を容されなかった。大正四年十月漸く初段を授けられた。時に十八歳。(第一回 昭和六年七月号)
と記している。ただ、同じ連載の中に、盤面を凝視しつづけたその努力が報いられ、入品をゆるされたのは大正三年、実に少年十七歳の初夏であった、とも書かれ矛盾が生じている。
 また、囲碁史研究家の林裕氏も「大正囲碁史」の連載で「大正囲碁史年表」に、「大正三年三月 小岸壮二入段 (本因坊)」と書きながら、「人物辞典 小岸壮二」の項では、「大正四年十月入段(十八歳)」と記している。
 こうした矛盾について、中垣内氏は「入段」のとらえ方の違いであり、現代の入段、即ちプロという考え方ではなく、初段となっても内弟子である壮二には免状も発行されなかったのではないだろうかと推察されている。なお、壮二が内弟子生活を終え、独立したのは大正六年七月。父が亡くなり母や妹を呼び寄せ、渋谷に一家を構えた時である。

三十二人抜き

 小岸壮二は、時事新報「囲棋新手合」で三十二人抜きを達成し、一躍その名を知られるようになる。
 当時、時事新報は五人抜きを一括りとし、五人をこえる場合は改めて一人目から数えるという形を採っていた。また万朝報の勝戦では六人目、七人目と通算で数えている。
 小岸の最初の一勝は大正六年十月の第一五三回(対小野田千代太郎)で三段の時である。以来大正九年一月まで、師である本因坊秀哉や方円社社長中川亀三郎を含む十六人に勝ち続け、三子が一局、二子が五局あるとはいえ、快進撃を続けていった。
 ただ、第一六三回の長野敬次郎戦は「先」で持碁打ち直しとなっていることから、厳密にいうと「三十一人抜き」が正しいという意見もある。また途中に「臨時手合」として、高部道平・阿部亀次郎・雁金準一の三人に勝っているので、「三十四人抜き」と言えなくもないということだ。
 また、「三十二人抜き」がスタートしたばかりの大正六年十二月から七年二月にかけて、万朝報の「碁戦」でも六人抜きを行っていて、その後も七人抜きしたとの記録もあり、鬼将軍といわれた野沢竹朝を凌駕する勢いであったという。
 しかし、小岸は長考派として知られた人物で、例えば大正七年九月に行われた瀬越憲作との対局は、打掛八回、九回目に終局し持碁に終わっている。時間制限が無く、徹夜で行われることもあった時代であるが、余りに長く、何日かかろうが対局料は変わらなかったため、徹夜は廃止すべきだという議論が巻き起こり、後に裨聖会が初の時間制を採用したのも、小岸の長考が影響したといわれている。

ここから先は

2,523字 / 2画像
この記事のみ ¥ 300
期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?