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囲碁史記 第21回 名人碁所本因坊道策


道策の名人碁所就任

江戸城跡

 道策が名人碁所に任じられたのは延宝六年であるが、その前年の御城碁(十二月二十四日)における四代将軍徳川家綱のことが『坐隠談叢』に記されている。
 御城碁では上座に将軍の席があり、いつでも将軍が見物できるようになっていたが、実際に将軍が臨席されて御前試合になることは珍しかった。しかしこの年は御前試合どころか道策に家綱から御声があったというのである。
 将軍家綱が姿を現すと、碁打ち・将棋指し共に平伏したが、家綱のお声により対局が再開される。将軍自らのお声がかりで対局を再開したことなどなかったため、一同感激したと記されている。さらに家綱は一同を見渡し、「本因坊道策はいずれに在りや」と尋ねられたので、稲葉美濃守および道悦は道策を指して、「彼処に控へ居る若き者に御座候」と紹介し、このたびは碁所を仰せつけられ有り難き仕合わせと道策が言上したところ、家綱はすこぶる満足の様子で、相手方のことなども尋ね、しばらく対局を見物してから席を立った。
 このときの道策の相手は知哲で、知哲の先で対局している。普段なら負けることのない相手であったが、将軍に声をかけられたことで緊張しきってしまい形勢を損じてしまった。そして道悦に叱責され、ようやく冷静に戻ると勝利したという逸話も残されている。
 
 御城碁の後、道策は碁打ちの手合直りを命じられた。

 本因坊道策より寺社奉行小笠原山城守様え御届申上候書付
     覚
  碁所の無之候時道策へ    
  先   算哲              
  先二  知哲

  二   門入
  先二  春知
  先   因碩

  今度の直し         
  上手並 算哲

  上手並 知哲
  先々先 春知
  先々先 因碩
  先   門入

春知、門入の手合上げ候得ば、因碩義も上候ねば不罷成候、右三人の手合上候へば、惣体棋の手合相障申候、其仔細は、
一、算哲義は家と申年老と申、旁以上手並に仕候得者、可為規摸と存候事
一、知哲義は算知後と申年令と申、棋も能仕候間、旁以て半石を上げ、上手並に仕候事
一、春知義は碁も能仕候得共、知哲同前には如何と奉存候、其候上因碩門入の手合にも障り申候、算知届の由には難上存事
一、門入義家と申、何卒上げ申度奉存候共、棋勝れ
不申候得ば、他の手合恰好に障り申候間、難上存候事、
一、因碩義は家にも御座候、棋も春知同前に仕候得共、年若の輩と申、殊に算哲、知哲同様に上手並には難致存候
右の段々存寄に御座候、春知、門入、因碩手合、今度書上候より上には難仕奉存候、以上
 
 この覚書によると、道策は碁所に命じられたのを機に、碁の家元一同の格を上げようとしている。二子にまで打ち込んだ知哲を定先の手合に直したのもそれを示している。
 この当時の手合だが、名人を九段、準名人を八段、上手が七段で、上手というのが、とりあえずの最高位となっている。そのため上手を基準に免状の発行や手合の表現ができている。つまり上手に対してこの手合という具合である。なので、先の覚書の先々先や先というのは、名人道策にではなく、上手に対しての手合である。先々先は六段、先は五段になる。名人や準名人というのは、人間が到達し難い神聖な位とされているので、名人を基準ではなく、上手を基準としている。
 この手合に直すときに問題が起きた。道策は前任者の安井算知に敬意を表し将棋方伊藤宗看を使者として段付に対しての内意を示した。道策はこういうところに非常に慎重だったと思われる。しかし、安井算知が道策の手合に納得しなかったのである。算知は春知も上手並にするように求めてきた。さらに一門の林門入も先々先(六段)にするよう求めた。一つずつ手合を上げてくれというのである。その代わり、道策の弟である井上因碩の手合も上手並に上げてもよいという交換条件をつけていたが、道策はこれを断っている。寺社奉行小笠原山城守の催促もあり、道策は算知の同意を待たずに閏十二月十日に覚書を提出している。道策は年長者には親切で気を使い、若者に対しては辛い手合で精進せよと言っていたのではないかと言う説も唱えられている。 

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