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脇役でいるのをやめた日

NYでは、小さな学校に通いながらも、編入後に自信を取り戻す前段階の出来事がありました。


常識は絶対じゃない

日本では、そして高校では、とても狭い環境にいた。進学校はプライドが高い上に、私は人生最初のどん底で自信がなく、まわりからどう思われているか考えるのに忙しかったから、"こうじゃなきゃだめ"というルールをたくさん持っていた。
留学するための学校に行ってみると、環境はだいぶ違った。見た目が素敵でもなく、英語のクラスも上ではない子が(失礼)、いきいきと音楽やら演劇やら、artを楽しんでいた。その子たちは、私のこともjudgeしなかった。

ところ変われば、ルールも変わる。
日本で思っていた"これはだめ""こうしなきゃ"は、アメリカではことごとく存在しなかった。それに出会うために、私が常識だと思って自分を縛っていたことは、そうじゃなかったんだ!と驚いて、自由になったものだった。

どうして私は幸せじゃないのだ

その中で象徴的だったことは、Philosophyを取っていた友達から聞いたこと。共通の友達が、
「Homelessの人たち、お金はないけど、楽しそうじゃない?」
とclassで言っていた、とのこと。友達は同意していた。

この話を思い出したのは、バスに乗っていたときのこと。私はバスで大学に通っていて、だいたいバスは空いていた。
そんなとき、Homelessっぽい、荷物の多い、縦にも横にもでっかい、茶色いコートを着たおばちゃんが乗ってきて、運転手と楽しそうに話し、降りて行った。
そう思って見てみれば、確かに楽しそうであった。

バスを降り、いつものようにリスが山ほどいる森の中を歩きながら、思った。
あの人よりも、私の方が若くて、大学に通っていて将来もあって、やせている。家だって貧乏じゃない。
それなら。どうしてあの人のほうが、幸せそうなんだろう?
私は小さいどうでもいいことを気にして、それができない自分を責めている。そんなこと、必要ないんじゃないだろうか。
私はもっと、自由でいいじゃないか…と、ふわふわした気分になった。

画質に時代を感じるね。

脇役をやめる

NYの大学に一緒に入った子には、年上で、目立つ子がいた。
その子は自信があって、積極的で、怖れなく動いているように見えた。アメリカに来た不安もあり、この子についていけば、私も同じように見てもらえるかな、なんて思いながら、そして単純に尊敬もありながら、ついていっていた時期があった。
その子は友達をshareすることにまったくためらいがなかったので、その子を介してAmericanの友達もできた。

「私は安定がほしい」
「安定っていうのは、いろいろあった上で、動じなくなることなの。安定がほしい子は、18歳で結婚して、子供もいるよ」
なんて言われて絶望した。私は当時気づいていなかったけれど、すでに大変に疲れる人生だったので、もう楽になりたいっす、と思っていた。自分で人生を切り開くなんて、できると思わなかった。
そうしているうちに仲違いしてしまい、この子とは距離ができた。友達は(しばらくは)残った。

そのあと、またもや、同じような友達が編入で近くに来た。この子は高校でも交換留学をしており、発音もよく、やはり積極的だった。一緒にいると元気をもらえるような気がしたし、やはり尊敬もしていた。
この子はいわゆる"Spring awakening"を体験したあとで、またもやphilosophyを勉強していたこともあり、大学生という年齢もあって、自分の性やidentity、いろんな宗教/Grusにも興味を持っていた。
そして、当時私が振られてショックを受けていた相手を、簡単に落としてしまった。それも、好きでつきあいたくて…ではなく、簡単なんだもん、と言いながら、ゲームのような感覚で落としていた。

"私は彼を本気でほしいと思っていない"、とこの子には言われた。当時は気づいていなかったが、やはり私はAceであり、恋愛も性欲もよくわからなかった。
あとでわかったのだが、この彼には"見た目のタイプ"があり、彼女がそうだった。後日、見た目が似ている違う子にも、探りを入れていた。

そんなことがあっても、私はこの友達と仲良くしていた。
ほかの友達から、辛くない?と聞かれたが、私はこの子を尊敬していて、自分はだめでこの子は良い、としていたから、そういったことは考えなかった。
だけど、そのうちに不満も出てきて、この子についていけば物事がうまくいくわけではないこともわかり、我慢もできなくなり、怒り心頭で関係を終えることになった。振られた彼や、同じく彼女を好きになってしまった彼の親友界隈とも、距離を置くことにした。

当時はよくわからなかったし、孤独でもあった。何も見えなかった。
だけど、自分を大事にするために、つるむのはやめた。

花開く

そのあと、物事がうまくいった。

当時はDebate teamに入っていて、tournamentsに毎月のように出ていた。
そして…勝つことができた。
チーム戦なのでpartnerのこともあるのだが、それでも何度か勝てた!なんたってnative speakerを相手に!留学2年目のあたしが!ということは、とても自信になった。
その辺を歩いているdebateをやったことがない人よりも、私のほうがうまいんだぜ!と思いながら家に帰った。

そして、いわゆるいい大学にも編入が決まった。
勉強ではなくartやらfashionやらをやりたい、という人も多い学校で、自分は思うほど賢くないのかもしれない…なんて思ってしまう、孤独な戦いの環境だったが、それでも、受かることができた。
これまた、自信になった。私はひとりでも大丈夫なのだ。

そんな知らせを聞いた↑の彼女は、探りを入れて助けを求めてきたが、私は返事をしなかった。そうして編入し、思い出すこともなくなった。

主体で生きる

今振り返ってみると、私はNY生活を楽しんでいたし、openでいろんな物事を受け入れてはいたけれど、地に足が着いていない状態だったと思う。

日本では、そして学校では、動く歩道に乗ったように、いろんなsupportをしてくれて、自分であまり考えたり、しっかりしていなくても(私はしっかりしているとずっと言われてきたけれど)何とかなってしまうところがある。
受験票も学校でみんなで一緒に書く。過保護…と言えばそうだと思う。

そこから出てみると、自分が主体で動いて、助けが必要な時はしかるべきところに求めに行く、ということが必要になる。編入したいと思ったら、Transfer counselorの予約は自分で取りに行く。それも予約はいつも埋まっていて、つかまらない。銀行に行っても、こういう状態で、これがしたいんですけど、とはっきり伝えないと、動いてはくれない。ついでに、相手によって対応も説明も毎回違う。笑

"これについて話してください"、と言うと、日本の人はつらつらと話してくれるが、英語となると"Fine"で終わる。いい質問ができればいい情報を引き出すことができるけれど、できないと何もなく終わる。そうして自分で動いて、良いことが起きることがわかれば、動けるようになる。それでも、まわりの評価を気にせず(ってアメリカではそんな空気も存在しないのだけど)、環境に逆らって孤高の戦いをする難しさはあると思う。
そんな中できちんとできている人(後輩)を見ると、育ちがいいんだな、私と違ってハンデを負って自信を喪失していないんだな、だから自信を持って動けるんだな、と思う。

つるむのはやめる

編入したあと、日本人communityとは、積極的につるむのをやめた。すでにほかの大学に編入していた友達が、"自分の大学には日本人がいない"、と言っていたのを聞いていいなと思ったことと、このNYの学校の子たちと、いまいち合わなかったからである。上の2人もつるんでいるタイプではなかったことが、思い返せば私にとっては好都合だった。他よりは合うからこっち、それに、ほかの国の人との出会いもあるし…という関係だったからだ。
宅飲みして、支え合って、中で付き合う相手を見つけているのは、うらやましいとは思った。それでも、なんだかツボが合わなかった。どうしていつも同じことでからかい続けるんだろう…全然おもしろいと思えないんだけど…と思っていた。1対1なら問題ないのに、なぜだろうと思いながら、自然と距離ができた。
「ある子の顔が大きいことをずっと言い続けているの。失礼じゃない?」
「ある子が変態顔だって話題で持ちきりだったの。つまらなくない?」
これも、ほかの国の友達に言うと、わかってもらえた。笑いのツボの問題なのである。
そうして、自分から探さない中で出会った人とつるむことにし(なぜか1年にひとりずつだった)、それ以外は同じ家のいろんな国の子たちと一緒にいるようになった。
そのほうが合っていたし、私にはそれができた。

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